お経・セッション
行事の時にはいくつものお経の中から一つその目的に合うものを唱えます。
仏教であればそれぞれの宗派があり、僧侶の資格を修得する際にその本山に関わる施設でみっちり教わります。
もう15年以上前になります。私もその経験を経て、まだまだ若かったせいか、真実がわかったような気になって、意気揚々自坊へ戻りいざ住職とお経を唱える時が来て、気付いたんです。
「あれ、、全然違う。。汗」って。
どういうことだ。こっちの節回しが正しいはず。時に言い合いにもなり、真実がすぐにわからなくなり、もやもやし続けました。
でも、どうも、地域性や住職によってオリジナリティーが磨かれるという事実に気づいたんです。
そういうことか!
やっと学んだぞ、基本の「き」を!
私はそれを受け入れ、自信を取り戻しました。
お経を二人以上で唱える時には、リードボーカル的なポジショニングのお坊さんがいまして、
基本的には、何があろうとも、サブの僧侶たちは、そのリードボーカルの「音」に合わせないと、特に節回しの多いお経は収拾がつかなくなるというか、一体感がなくなるのですね。
もちろん、本山の定めるキーは設定されていますが、上記の通り、違うこともありまして。
原キーを得意とする(目指そうとする)僧侶と、そうでない僧侶がいるのも事実で。
住職は特に、本番になると、その原キーが守られなくなります。
セオリー通りいけば、お勤めが中盤に向かうにつれて、キーが徐々に上がっていきます。そして、終盤に跳ね上がります。
ある日の住職のリードは、何を思ったか、序盤からはるか高いキーで始めてしまった。。
おいこれはまずい、と思ったところでどうすることもできず、合図を送ることもできず、意を決してその音に乗りました。
案の定です。
中盤からリードボーカルの声が苦しくかすれ始めます。
私は思いました。「ほら、言わんこっちゃない。」と。
住職の息も絶え絶えになり、中盤を終え、終盤に跳ね上がる手前で、
私はあえて大きな声を出して軌道(音程)修正に挑みます。
成功です。
終盤は本来のキーの高さで、終えることが出来ました。
お勤めが終わってから住職に確認します。
私「最初かなり高くなかった?」
住「はて、そやったか?」
私「。。。まぁ、、いいわ。。」
そこで私は再び気付くことになったんです。
少なくとも、住職には悪気はないのだということに。
そして最後に思い出します。たまに来て下さる布教師の先生のお言葉。
『日本人は「無常」という独自の価値観を今、取り戻すべきだ。』と。
物事に同じなどあるわけがないだろう、と。。
そういうことなのかな(どういうことやねん!)
お後が宜しい様で。