【Lilith/川野芽生 論評】


【肉声録音、カメラ】

うすものの裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし

庭に来る晩春、ふるき藤棚は藤蔓の重たければ折れつ

廃園にあらねど荒ぶれる庭よわれらを生きながら閉ぢ籠めて


綴じられた歌を開けば、先んじて文語の織られたものが見える。先頭の「羅の」の歌ではむしろ死者でないこと、生きてしまっていることを嘆きそれでもゆらゆらと歩いている。初句の「羅」はうすもの、と読むが漢字表記の厳めしさから意味の布地以上に修羅や羅生門といった、鬼神が金棒をついて仁王立ちしているような死に近い赤色の様相を持つ。そして、「羅」にある糸編や繊維の「維」の字のもつ、うすい生地に光が透き通ろうとする繊細さが見える。二首目三首目においても長い間ひとつの庭園に鎖されていて、長い間、生きているだけで庭を整然めかすことも死ぬことも、何もこなさず、正に生きているだけのガーデン中の木偶の坊としている何もかもを絶たれた絶望が歌われた。川野芽生の一番表面的な特徴はその文語体だが、これは何よりひらがな(もといカタカナ)をくっきりと表す効果がある。それもそのはずで、口語と文語の変換で起こりうる違いは母音をハ行にすること、「曳きて」のような活用語尾、「折れつ」のような古語の助動詞の変形などひらがな部分が主で、漢字の単語は1000年前だって変わらない。
さて、今回は『Lilith』中の主体に注目する。そもそも短歌における主体とはなにか。不可欠かつ自明なものの字義をこの京大短歌会の勉強会という研がれた場でひときわ初心者かつ新顔の自分が掲げ、ふたたび認めることとする。
「短歌作品の中における、実体験的な詠風から読者が感じられる主人公そのものであり、またはそれを客観視的に視つめながら描き、あるいは感情を吐露する仮想的な作者を意味します。(最適日常より引用)」とのことでいわゆる作者とは異なり、主人公または俯瞰した”カメラ”のことを指す。なるほど主人公やカメラは短歌を見る存在であり、自らの瞳を肉眼で見た事がないようにいきおい自明のものとなる。先に説明したような、歌集は「借景園」の連作ではじまり園内に閉じ込められた主体が哀愁をしょいこんだカメラとなって外の景色をぼんやりと写す。ワンピースに出てくるカヤのような状況だが、もっと、死のにおいが充満していて、無機物でないカメラには肉の臭いがして、感情を持ったカメラは嗅覚までを滲むように残す。

記憶とは泥濘 気泡はきながら紅茶のうづへ檸檬が沈む


カメラはティーカップをインサートしている。まず「泥濘」と「檸檬」の字面に目が行くが単に言葉遊びに始終せず景がすとんと落ちていくための、言葉選びの必然性を語る。カメラはピンチアップしていて、カップの中の渦にひきこまれるようにしてぐいーっと近づいては底に沈む記憶のぬめりに触れて、どうにか思う。その記憶は好きな人とのハッピーな思い出!というわけにもいかず、きっと掘り出すたびに陰るようなものに思えて、好きだからこそそっと陰るようにも思う。木陰みたいに、ほの暗くてほんの明るい、そんな翳りだ。

海の画を見終へてひとは振り向きぬその海よりいま来たりしやうに


画ではなく、鑑賞するひと。カメラはひとの周りの空気の変化をとらえていて、美術館の、絵をかけた漆喰壁がスクリーンのように砂浜を映している。鑑賞者と作品、額で区切られたはずの絵の海と壁の境目たちはぼやけ、ひとは海をホームとしたような殊勝な顔に整う。美術館とカメラの親和性は高い。ぽつんと三脚がある様もよく思い浮かぶし、美術館のたいていは厳しく撮影禁止であるために壁の多くに、カメラと赤いマルとバツの禁止マークのイラストがきっとそこらに貼られている。あってはいけないカメラは、いけないからこそより多く存在している。

みづからの尾を切り落とすおこなひの戦士が竜を狩りに出で立つ

曠野あらのゆくひとびとの武具てらしつつ蜥蜴のごとくなまめける月


”川野芽生らしさ”でもある、ファンタジー部分では、主体はカメラ以上にストーリーテラーの役割を強く持つ。「おこなひの戦士」「月」を語る、カメラ。激写しつつもなんてことのない異世界では起こりうるワンシーンであるが、主体の字義である、客観的な枠の中に閉じ込めた時、ジオラマのように漫画の一コマのように四角く区切られたことでお手製の物語風に戦士たちは生きる。しかし歌を読んだ時にまるで物語中の人物等が艶かしい炎を宿して生活しているように感じられる。順序が逆転しているのだ。
ただしやはりストーリーテラーも単なる語り部以上の熱を、今にも発火しそうなほどの熱を燻らしている。

魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

朝なさな燃えあがるアレクサンドリア図書館ありてわれらもその火

語り部と思われていた人物も作中に飛び込んで決起する。短歌についてはこれまた自明となり広く省略される一人称を取り、しかも「われ」という強いものを採用している熱量の渦中でたまらず主体が身を乗り出す勢いは、語る隙間もなく目まぐるしいものだ。客観的、客観的と再三謳ってきた”主体”は中途の引用も示すとおり、主体的に感情を吐露すべき存在であった。ただし、直近の引用歌二首は、主体はめいっぱいにほとぼりを吐いてはいるが、同じくして焼ける「樹々」と「アレクサンドリア図書館」をしかと写している。ファイアパンチの主人公アグニが、永久の炎に包まれた妹が煤として崩れるまで、睨み続けたように、エレンの母親が巨人にぺきぺきと握りしめられたシーンを、あなたが覚えているように、あらぬ火焔に腸のうちを滾らせつつも、やはり主体はカメラとして機能する。
かくして、短歌における主体のおもな役割を説いた。



これにておしまい!

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