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僕たちは、なぜ論文を書くのか?

いま、はじめて、論文執筆の指導者を経験しています。何事も、はじめが肝心です。とことん突き詰めて、仕組み化してやろうと思っています。
ことはじめに、「そもそも、なんで論文を書く必要があるんだっけ?」ということを考えてみました。
考えている中で、不思議なことが起こりました。

ぼく自身が、「論文書きたい!」って思ったんです!
うまく伝えられている自信はありません。間違ったことを書いている可能性も高いです。
ただ、今回書いたことに、心の底の底で触れていただくことができたら、きっと、「ああ、論文書きたい!」ってなると思います。

では、その理由、5つ、いきます!!

▶︎生きた証を刻むことだから!

どこでもちょっと切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。今度の論文もほとんどそんな文字ばかりのつもりなんだけれど、それがどのくらい人に感じられるものだろうか。体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形で取り出すこと。
神谷美恵子

マークトウェインは、その著書『人間とは何か』の中で、人間は機械であるとしています。
僕なりに解釈したものが、以下の図です。

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ある特異的な「個人の性質」に、「外部入力」がなされると、ある「出力」が自動的に生まれる、というわけです。
諸説あると思いますが、今回は便宜上、この考えを採用させていただきます。

僕たちは、先人たちが築いてきた土台の上に生きています。それが現在、いま、この瞬間です。この目の前の現実は、これまでの歴史の中で一番新しく、常に、はじめての世界です。ガリレオは、Google Earthで地球を見たことはなかったのです。この、常にはじめての世界が、僕たちにとっての外部入力となります。

次に、個人の性質について考えます。僕たち自身は、一人一人、特異的な個人の気質を持っている上に、特異的な教育環境のもとで育ってきています。そりゃそうですよね。あなたと全く同じ人はいませんし、違った存在である以上、後天的に育つ環境を全く同じものにすることは不可能です。

つまり、外部入力も、個人の性質も、唯一無二なのです。

『唯一無二の外部入力』×『唯一無二の個人の性質』→唯一無二の1個の出力

すなわち、『歴史上はじめての1個の出力』が、まるで鶏が卵を生むかのように、ポンポン・ポンポン、死ぬまで、ずっと続いていくのです。もちろん、玉石混同でしょうが・・・。
論文化とは、そんな個人の気づきや発見を、共有可能な形でまとめ、公表するものです。その営みによって、「あなたが、いま、生きた、生きていた」、ということが記録され、風化しない歴史の石板に刻み込まれることになるのです。

▶︎巨人の肩を建築することだから!

私達の仕事は、人からどれだけたくさんのものをもらうかなんです。自分たちの仕事をクリエイティブな仕事というよりも、リレーのようなものだと思っています。僕らは、子供の時に誰かからバトンをもらったんです。そのバトンを、そのまま渡すんじゃなくて、自分の体の中を一度通して、そしてそれを次の子どもたちに渡すんだ。そういう仕事だと思っています。
宮崎駿

巨人の肩については、過去の投稿を参照ください。

もう一度繰り返します。

論文化するということは、個人の気づきや発見を、共有可能な形で公表することです。

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言い換えれば、たった1人-個人のものだった武器を、全体の武器に変える営みが、論文化です。
いったん論文化されれば、全員がその足場の上に立つことができます。
僕たちは、ニュートンみたいな発見はできませんが、ニュートンが明らかにした力学法則の土台の上に立って、歩行のバイオメカニクスを分析したりできるわけです。それって、すごいことです。論文化することは、次のNew Normalをつくる営みなのです。
先人の築いてきた巨人の肩に乗って、次の世代が乗る巨人の肩を建築する

それが、幸運にもいまを生きる、我々の責務ではないでしょうか?そして、論文化という仕事が、強固な巨人の肩を築くことに該当するのです。

▶︎それが研究者としての仕事だから!

Work. Finish. Publish. (はたらき、まとめ、出版せよ)
M・ファラデー

出版か消滅か(Publish or perish)という言葉があります。
どんなにすぐれたアイディアも、実際に文章にして公表しないと、公には認められないということです。
もっと極端に言えば「論文を書け、書かないなら、研究者を辞めちまえ」ということです。

学会発表・ネット上の公開・レプリント (re-print) と 論文は厳密に区別されます。
なぜなら、後者は「これはしっかりしていますか?巨人の肩にしてもいいですか?」ということを、優れた研究者が、厳しい目でチェックし、認められたものだけが掲載されるという『査読プロセス』を経たものだからです。

研究者にとって、実績という言葉は基本的には掲載論文のことを指しています。
論文実績のない研究者は、仕事をしていない、とみなされます。

▶︎キャリアアップにつながるから!

英語で論文を公表した途端、その執筆者は世界の研究者の仲間入りである。
佐藤春彦

以下、理学療法学(佐藤, 2019)からの引用です。

もし、論文が掲載された雑誌のインパクトファクターが高ければ、優秀な研究者だと高く評価され、研究職への採用、昇進などキャリアアップ、そして、研究助成金の獲得にもプラスに働くだろう。
論文が無事掲載となれば、研究チームとして賞賛される。
英文誌への論文掲載により、その研究室で行われる研究が世界中に知られるようになるので、同様の研究を進める海外の研究者からも連絡が入る。それがきっかけとなって国際的な共同研究や海外留学、研修へとつながれば、英語で論文を書く必要性がますます高まるだろう。
国際的な共同研究では、チームの一人ひとりが、研究の進め方や考え方の違いを経験し、柔軟に研究を進める姿勢を身につけるかもしれない。こうなると研究室は国際的な研究拠点として、さらに発展していくことになる。

読んでいて、わくわくしてきませんか?ぼくは走り出したい気持ちになりました。
自分が所属している研究室や病院が、国際的な研究拠点となるのですよ!?
論文は、自分にとっても、所属する集団にとっても、未知の世界への扉を開く鍵となりうるのです。

▶︎書けば、書けるようになるから!

本は、読めば読むほど豊かになる
文章は、書けば書くほど確かになる
話は、話すほど機敏になる
ジャーナリスト 堤未果

研究の学会発表はバンバンするけれど、論文は一本も出していないよね、という人がいます(結構います)。
とある後輩がそうだったのですが、彼に、「なぜ論文化しないの?」と聞いたことがあります。
彼は、こう答えました。
「自分が本当に納得した、価値のあるものだけを、論文にしたいのです。見られて恥ずかしいものを出したくありません。」
おそらく、「発表すれども論文化せず論者」の多くは、類似した考えを持っているのではないでしょうか?

ここで考えなければいけないのは、「生長は漸増的」なものである、ということです。
生まれたら、花でした。という植物はありません(たぶん)。
泥の中から、硬い種の殻を破って、最初はたった一枚の葉っぱから始まって、段々と茎を伸ばし、花を咲かせるのです。
彼の考えは、この生長の原理を無視しています。

仮に、NatureやScienceに載せられるようなとんでもない研究が実施できたとしましょう。
彼にとっては、その研究がはじめての論文化、ということになるわけです。
そこから彼は、「論文化するってどういうこと?」「論文化のルールは?」「Introduction, Methods, Results, Discussionとか、構造化されているのね」「ResultsにDiscussionを混ぜてはいけないのね」「てか、論文っていつ書くの?、暇なくね?」・・・。無数のことを学びはじめるのです。
そんな、論文素人である彼の書いた論文が、NatureやScienceに載るわけはないのです。

研究を企画し、実行する能力
実行し終えた研究を論文化する能力

この両者は、リンクはしているでしょうが、別々のスキルと捉えるべきです。
誰にも見せたくない、恥ずかしい第一報を書く勇気のない人間は、永遠に論文を書く力を身につけることはできません。
書くから、書くために必要な事柄を勉強するのです、課題に出会えるのです。
書くから、書けるようになるのです。

当たり前のことです。
いずれ出会うであろう、Super Significanceな発見を、最良の論文としてまとめあげるために、その腕力をつけておくために!、僕たちは、常に書いている必要があるのです。

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