みなさんには何か「拘り」はありますか?
僕には「拘り」はありません。
これは良くないことなのでしょうか?
「拘り」というと何か譲れないことや何かに執着するというイメージがあります。
僕は考えてみると世間一般が考える「拘り」は特にないかなぁと思います。
ビールが好きなのですが、特にこれしか飲まないという銘柄もないですし、どちらかというといろんなビールを飲んでみたいという方が強いです。
飲み比べとか最高です。
強いていうなら、ジーンズはセルヴィッチしか履きたくないという「拘り」はあります。が、たまには加工されたジーンズも履くので「拘り」とは言えないかもしれません。
背景
「拘り」について考えてみるきっかけになったのは勤めている会社での役員面談でした。
1年ほど前になりますが、何か「拘り」がないのかと聞かれた時に、何も浮かびませんでした。
僕が働いている会社はWeb制作をしていてクリエイターの方がたくさんいらっしゃいます。
みなさん個性があり、それぞれ「拘り」をもっているように感じました。
役員の皆さんもクリエイティブな「拘り」をもっていて、The 職人という感じです。
正直僕以外の皆さんもThe 職人 です。
「拘り」が無いことへの自己嫌悪
「拘り」が無いということを改めて知った時に、かなり自己嫌悪に陥ってしまいました。
面談以降、自分は個性がなく、何も面白味がない、魅力がない人間だとずっと考えるようになりました。
(元々、自己肯定感が高くないのもあるかもしれません)
「拘り」を見つける努力
役員からも「拘り」を見つけると良い。と言われ、面談以降日常生活を見直したり何か「拘り」を見つけようとしてみました。
しかし、特に見つかりませんでした。
見つからないもんは見つかりません。
「拘り」がないことへの自分なりの考え
「拘り」が見つからなかったのでいっそのこと「拘り」が無いことを開き直ってやろうと思いました。
「拘り」が無いことを「拘り」にしようと。
最後に、「拘り」があることは素晴らしいことで、「拘り」の有無がどちらの正解不正解はないという前提で自分なりの考えを書きたいと思います。
個人的には「拘り」がないことは、良いことだと思います。
「拘り」がない人間がいても良いと思います。
むしろこ「拘り」がないといろんな考え方ができ、いろんなタイプの人間になれると思います。
変わりたい時に変わることができると思います。
こう書くと芯がないんじゃないかと思いますが、自分の中で芯を持った上で「拘り」が無い人生を送ろうと思います。
この「芯」こそが「拘り」かもしれません。