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不意に訪れるどうしようもない虚しさについて真剣に考えてみた。

太宰治の短編小説に「トカトントン」という話がある。
これは太宰の作品群の中でも、とりわけ人気のある小説の一つだと思う。
太宰作品の全体の特徴として、共感性の高さがあげられるが、この作品に対しても「ここに私がいる!」と感じた人がたくさんいたのではないか。
私に関していえば、この小説に出てくる相談者の「悩み」と同じものを今もって抱えており、共感どころの話ではない。
そこで、少しこの「悩み」について語ってみたいと思う。

「悩み」とは

まず、読んだことのない人のためにその「悩み」というものをこの小説に沿って簡単に説明する。

この小説は2通の往復書簡のような形で構成されている。某作家宛にファンの男から相談の手紙が届き、それに返事をするというものである。

男からの手紙の内容は、「トカトントン」という謎の幻聴に悩まされているというもの。その音を聞けば何に熱中していてもたちまちに白けてしまう。仕事も恋も思想も創作も何もかも「トカトントン」で全てが無意味になる。これは一体何なのか、どうすれば逃れられるのか。教えてほしいと。

つまり、「悩み」というのは端的に言ってしまえば、「虚無」ということになるのだろう。だが、作中で男は、虚無などと簡単に片付けられない、もはや虚無すらも打ち壊すもの、と言っていたから、まあ虚無のような何かである。

虚しさによる弊害

私は男のように幻聴が聞こえる訳ではないが、虚しさに飲み込まれてしまうことがよくある。それはこの男と同じように何かに熱中しているとき、ふとした瞬間にやってくる。

自己紹介でも書いたが私には趣味が多い。それは、日々の無聊を慰めるためであるが、何か一つに定めないのはこの熱中を避けるためである。どれもこれも中途半端にすることでどうにか虚しさをやり過ごしている。だから何か一つにハマりそうになったら、できるだけ違うことをして熱を冷ますようにしている。

趣味であればこのように何とかやり過ごすこともできるが、しかし、仕事となればそうはいかない。特に正社員として雇用されている場合は、毎日何時間も同じ仕事をしないといけないのだから、たまらない。

今は無為徒食な生活をしている私でも、かつては正社員として働いていた時があった。
どの仕事も初めの方はやりがいを持って楽しく働いていたのだが、ふとした瞬間に、「今自分がやっていることは果たして意味のあることなのか」という考えが浮かんで、たちまちやる気を失った。
虚しさを抱えたまま仕事をするのは苦痛で仕方がなく、どれも3年ともたなかった。
最初は職種や勤めている会社が合わないのかと思っていたが、毎回そうなるのでどうやら自分に原因があるのだと悟り、それからはおとなしく正社員で働くことをやめた。

虚しさの正体

ところで、私は社会において絶対に必要な人間など存在しないと思っている。
例えば今の我々にとって欠かせないスマートフォンを作ったあのスティーブジョブスでさえもそうだ。彼がいなかったとしてもスマートフォンと似たようなものは遅かれ早かれ生まれていただろうし、もし仮に生まれていなかったとしても、存在しないものの不存在は嘆きようがないのだから、私たちの幸・不幸には寄与しない。

結局、本来的にスペシャルワンな人間などいないのだから、社会としては特定の個人などどうでもよくて、誰かが足りるだけいたらいい。つまり個人の存在は無意味なのである。
だがそれはある種当たり前のことだと思う。
そもそも「この人がいないと社会は成り立たない」というよな存在があったらそれこそ大問題であって、一人一人が何ら無意味であるからこそ我々は安心して生きていける。

しかしそれが故に人は、自らの内側に向かって意味を探そうとするとたちまち空虚を感じてしまい、果ては「人生には意味がない」と行き着いたりする。

何が言いたかというと、「人は意味を見出す主体なのであって、客体ではない」ということだ。

だから、健全に生きていくためには、仕事だろうと趣味だろうと何だろうと、自分の外にある、種々様々なものに意味を見出していかなければならない。

それができないと、ベクトルが自分の内側へ向いてしまい、たちまち虚しさに襲われる。
楽しいという感情はひとときの間、自分から目を背けさせてくれる。
だが、一つの感情を持ち続けることはできない。その感情が途切れた間を虚しさは突いてくるのだ。
もちろん、楽しいという感情は意味を見出す上で必要なものだと思う。
しかし、その先に行くことができなければ、いずれ虚しさに蝕まれる。

では一体どうすれば物事に意味を見出せるようになるのか。
残念ながら私は未だにその方法を見つけることができていない。

最後に

小説の中で某作家、つまり太宰は男の相談を気取った悩みだと一蹴し、「君はいかなる弁明も成立しない醜態をまだ避けているのだ」と言い、「真の思想は叡智より勇気を必要とするものだ」と諭した。それから聖書の一節(マタイ 10章28節)を付して、これが理解できれば耳鳴りは止むと結んだ。

確かに私は人をおそれ、恥をおそれているのかもしれない。
しかし、それを乗り越えれば意味を見出せるのようになるのか。
私は虚しさを打ち消すことができるのか。

太宰の言わんとしていることはわかるのだが、いまいち腑に落ちていない自分がいる。

いずれ自分なりの答えを見つけて克服したい。









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