2023-07-29T19:05-『サイボーグ〇〇9』

 ※本記事では、参照した原作の奥付が「009」でなく「〇〇9」であることに従って、冒頭を除き漢数字表記としています。

 神山 健治:009 RE: CYBORG,Production I.G,サンジゲン (2012)より引用:「死の概念は、自らの死の恐怖へと繋がり、人はその逃れられない力から解放されようとして、偶然、神を発明した。これは精神分析の基礎を築いたフロイトの言うところの、『自然の圧倒的な優位性から身を守る必要から、宗教が生まれた』との学説とも一致する。(中略)思考する脳こそが、神そのものなのではないのか。脳とは自らの存在を人間に意識させることで、生存に有利な環境をつくりだすことに成功した、便宜上、神と呼ばれる何かなのではないか」ーーアルベルト・ハインリヒ,〇〇4;考古学者であるピュンマ,〇〇8の仮説を含む。

 最近は聞かなくなった印象がありますが、貴方は神を信じますか、という言い回しで、あるいは似たような言葉で勧誘を受ける話は未だにある?様な気がします。上記の仮説が仮に真であるとすれば、神は発明品の1種であり、脳そのものでもあり、それ以上のものではなさそうです。信じるか否かではなく「発明品を使うか否か」という選択肢があるだけだと、私は考えています。使いたいならそうすればいいし、使いたくないなら無視すればいい...…ですが、しばしば、聖書をはじめとする教典について、そんな話ある訳ないじゃないか、読む意味がわからない、という様な、初めから読む気がない様な感想が多々ある様に思われます。

 実際、腹の内では私もそう思っている節があります。「たとえ聖人を名乗るだれかに水上を歩くのを見せられたところで、現代人はそれに畏敬の念を抱くというようなかつての純朴さを失っている。」[神林 長平:グッドラック戦闘妖精・雪風,ハヤカワ文庫,11(2001)]との指摘がある様に、私もその現代人のひとりに含まれるはずです。しかしながら、サイボーグ〇〇9原作中の一幕に提示された、「どんな地上のものも それはただーーたとえである(エッダより)」[石ノ森 章太郎:サイボーグCYBORGゼロゼロ〇〇9ナイン -神話・伝説編- ,秋田文庫,1,154(1994)]ということを意識して教典を読もうとすると、また違う読み方ができると、私は考えています。

 「意味が無いと思えることがある、きっと、でも、意図はそこに必ずある、無意味じゃないあの意図が」[THEATRE BROOK:裏切りの夕焼け,エピックレコードジャパン(2010)]と歌われている様に、自分には意味がわからないけども、教典の表現は精緻な「たとえ」であって「意図」があるのではないか。その様な視点で文字を追っていくと、腑に落ちる何かが得られるかもしれません。ただ、自戒せねばならないこととすれば、何でも彼んでも、ナントカの思し召しだ、ということにしたくない、ということです。『生物と無生物のあいだ』で有名な生物学者の福岡伸一氏は、別の著書の中でこの様な指摘をなさっています。

「私たち自身が、自分の運命が何者かにあらかじめ決定されているという物語が好きなのかもしれません。それがいまや、遠い天空の星の運行ではなく、私たちのミクロな内側に潜むリトルピープル=遺伝子の戦略に操られている、と信じたいのかもしれません。」[福岡 伸一:遺伝子はダメなあなたを愛してる,朝日新聞出版,235(2012)]

この文章には正直、ギクリとした覚えがあります。確かに、本当に全てが決まっているのであれば、必死になって先々のことを考えることに意味はありません。考えること全てを放棄しても、既に決まっているなら何も問題ないからです。その方が、少なくとも精神的にラクなことが多々あると思います。ですが、実際はそのようなことは少ない様です。他方、冒頭で紹介した「思考する脳こそが、神そのものなのではないのか」というピュンマの仮説には勇気づけられるところがあります。それは「神」の思し召しだ、という表現が仮に真であるとすれば、思し召しの内容は「脳」でなんとかできるかも...…しれないからです。勿論、そこまで上手くいくとは思ってはいませんが、頑張ろうという気にはなれそうです。ただし、そうなってくると、他人との友好的な対話は良しとして、人間同士で喧嘩が始まってしまえば、それはまさに脳みそ同士(神々)のぶつかり合いになります。神々が人間の身体を使って、代理戦争をしている構図になるでしょうか。喧嘩すると疲れるのは、身体が戦争に巻き込まれているからかもしれません。触らぬ神に祟りなし、とも言いますし、他人(の脳みそ:神)に喧嘩を売るくらいなら、さっさと戦略的撤退をした方が、被害を抑えられる気がします。臨戦態勢になるのは、最後にとっておいた方が良さそうです。

 ちなみに祖父の意向で、私は洗礼名だけを持っています。ちゃんと教義について説教を賜ったことは一度もありませんので、入信はしてません。しかしながら、祖父は何らかの意図を持っていた様な気がするのです。
 祖父は特攻兵でした。ですが、私がこの文章を書いていられるのは、大変遺憾なことに、原子爆弾の投下と共に祖父の出撃がなくなったからです。聞くところによれば、あと少しズレていれば、祖父は出撃していたそうです。もし出撃していれば、私の父が産まれることもなかったですし、同様に私もこの世に存在していません。当時の、祖父に向けた「寄せ書き」が遺品にありました。純粋な殺意が籠った達筆を見たことは、未だ記憶に新しいです。まだ、祖父が御存命の方がいらっしゃいましたら、勇気を出して訊いてみたら良いかと思います。恐らく、そこまで珍しい話でもないはずです。
 私の祖父が、どのような意図で、孫に洗礼名をつけたいと思ったのかは、最期まで訊く機会がありませんでした。もっと話をしたかったなという思いが、ふとした時に頭を過ぎります。

 洗礼名にどれを選ぶかについては、両親に決定権があった様で、「なんかカッコイイからこれでよくね?」みたいな、割と軽いノリで決まったそうです。私が、祖父と同じ納骨堂にいくことになれば、例えば「マルコ・ピキア」という文字が、大理石の扉に彫られることになるはずです。私は日本人ですので、「マルコ・名字・名前」となるわけですが、「なんか、ピン芸人でいそう」という、偉い方々からシバかれそうなことを思ったりします。ですが、祖父の意向は保たれるわけですから、それはそれで良しと思う次第です。

 話は変わりますが、こちらのウェブページによれば、石ノ森章太郎氏と松本零士氏は、まったく同じ生年月日なのだそうです。

松本零士氏の作品では、私は『ザ・コクピット』を全巻揃えたいと考えています。すきな台詞はこちらです:「世界じゅう 混血にしちまったら、戦争しなくなるかもなア。おたがい しんせきだらけ だもん。」「そう カンタンに 話がつけば、この世は天国。」[松本 零士:THE COCKPIT LEIJI MATSUMOTO PRESENTS,小学館文庫,1,163(1997)]。サイボーグ〇〇9も、ザ・コクピットも、読んだ後に暫し無言になってしまいます。考えさせられているのだろうけど、どう考えたらいいか分からない、といった感覚になります。それでも、この表現は何らかの「たとえ」であって、その「意図」は何だろうか、という問いを持ち続けることはできる様に思います。私感ですが、意味とはスカラーで、意図はベクトルではないかと勝手に思っています。意図がベクトルならば、スカラーの方は分からないけど、向き:意向だけはこっちだ、みたいなことは分かる気がします。意図を探ると何かが見えるかもしれない、というものは漫画に限らず、あらゆる事物に言えることだと考えています。あらゆる、というのは例えば、古典、壁画、建築物、道路、鉄道、バス、車、飛行機、船、戦車、戦闘機、戦艦、詩、曲、絵本、小説、イラスト、ノベルゲーム、エロゲ、アニメ、アニソン、ボカロ、スマホゲー……視界に入る全ての人工物や情報、その痕跡になりそうです。挙げていったらきりがありません。一見して意味が分からなくても、意図を掴もうと考え始めた途端に、その「たとえ」に魅力を感じるかもしれません。サイボーグ〇〇9は、巧みな「たとえ」を漫画として提示したがゆえに、傑作とされているのだと、私は考えています。