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極楽浄土ー1

 最初に断りを入れておく。以下の記事は「極楽」がどんな場所かを、『阿弥陀経』に書かれている内容をもとに、素人が書くだけの内容である。
 そもそもそれらを見ても私自身、今すぐそこに行きたいなどとはあんまり思えない。
 宗教的勧誘とかの目的は一切無いので、安心してお読み頂きたい。


 「浄土」とは本来、さとりの境地に入った仏や菩薩の住む「清な仏国」のことで、仏の数だけあるので数えきれない。『無量寿経』には二百十億の浄土が説かれているとか。
 代表的なところでは、阿閦仏[あしゅくぶつ]の妙喜国[みょうきこく]、薬師如来[やくしにょらい]の浄瑠璃[じょうるり]世界、大日如来の密厳[みつごん]浄土、毘盧遮那仏[びるしゃなぶつ]の蓮華蔵[れんげぞう]世界などが有名である。

 その中で、「極楽浄土」は阿弥陀仏の住む世界のことで、「西」にあるとされている。『阿弥陀経』でもそうだし、他の経でも極楽は西だと書かれているのだ。
 『無量寿経』では「実に広々として限りがない」とされているし、天親菩薩の『浄土論』には「なにものにもさえぎられないことは虚空のごとく、広大で辺際がない」と説かれているので、元々は西も東もない無限に広大な世界のはずなのだが。
 極楽が西にあるというのは、東洋人に自然に根付く「東は万物の生起するところ、西は万物の終帰するところ」という思想に基づいているのではないか、とのこと。
 太陽や月や星は東から昇って西へ沈む。その様子から、すべてのものが帰っていく場所として「西」があり、最終的に行き着く場所として極楽も西と定められたのではないか、と。

 とりあえず西にあるとして、ではどのぐらい離れた場所にあるのか。『阿弥陀経』には「これより西の方、十万億の仏土を過ぎたところに極楽がある」と説かれている。
 この距離を数学的に計算した方がいて、大阪工業大学元教授の山内俊平先生だそうだ。
 「仏土」は仏の教化範囲で三千大千世界といい、須弥山[しゅみせん]世界という小世界が十億集まったもの、とされている。そこで山内先生は、十億の小世界が正方形に整然と並び、その各世界間の距離を銀河系の恒星間の距離などから三・三五光年と仮定した。すると、一仏土の一辺は十万光年となり、それが十万億倍だから十京後年になる。
 極楽に辿り着くには光の速さの乗り物で、一億年の十億倍かかることになり、とても人の行ける場所ではない。

 しかし、『観無量寿経』には「阿弥陀仏はこの娑婆世界からほど遠くないところにおいでになる」と説かれている。
 『岩波仏教辞典』は「十万億土」を「相対有限の迷いの世界と絶対無限のさとりの世界との質的相違を、多大な数値で暗示したもの」と説明しているらしい。
 つまり、迷いの凡夫たる私たちから見るととてつもなく離れた場所だが、仏の側から見るとすぐそこに見えるということであるようだ。わかったようなわからないような、不可思議な話である。

 さて。極楽とはどんな世界なのか。
 『阿弥陀経』にはサンスクリット語の原典が現存していて、その題名は『<幸あるところの美しい光景>と名づける大乗経典』という。
 <幸あるところ>という意味のサンスクリット語は「スカーヴァティー」で、この語が三蔵法師によって「極楽」と訳されたようだ。
 先に述べたように「極楽」は阿弥陀仏が建立された浄土のことだが、お釈迦さまは「その国の人びとは何の苦しみもなく、ただいろいろの楽しみだけを受けているから、極楽というのである」とその名の由来を語っている。

 そう聞くと「すべての欲望を満足させる快楽的な世界」であるかのように聞こえてしまうが、実はそうではない。
 なにせ仏の世界であって、つまりさとりの世界であるから、「楽しみ」と言っても物質的な楽しみや精神的な楽しみではなく、仏法を身に得た楽しみであるらしい。智恵によって生ずる楽しみであるそうな。
 やっぱりわかったようなわからないような世界である。ただ、お釈迦さまが最初の説法のときに「人生は苦である。苦とは四苦八苦である」と説かれた、その「苦」から解放された世界である、とは言えるだろう。

 <幸あるところの美しい光景>である「極楽」。
 次回は、どんな<美しい光景>が広がっているのかを書いていこう。

<参考>
阿弥陀経のことばたち
 著者:辻本敬順 発行:本願寺出版社 2001年

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かんちゃ
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