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極楽浄土ー5(極楽に住む鳥・その2)

 さて、前回の続き。最後は「共命之鳥ぐみょうしちょう」、というところから。
 共命之鳥はサンスクリット語で「ジーヴァン・ジーヴァカ」といい、この鳥の鳴き声から名づけられたとされているが、「ジーヴァ」という語は、生きるとか生命という意味なので、音で耆婆耆婆ぎばぎば鳥、意味で命命みょうみょう鳥、生生しょうしょう鳥、共命鳥と呼ばれている。
 インド北部の山地に住むキジの一種ではないかといわれているが、仏典ではしばしば、身体は一つでありながら、頭と心は二つある珍鳥として登場する。
 この鳥について、私事になるが、実家の寺の阿弥陀様の前卓にこの共命之鳥が彫られてあり、子供の頃、父から「その鳥は共命鳥ぐみょうのとりだ」として、こんな話を聞いたことがある。

 一つの体に二つの頭を持ったその鳥は、それぞれの頭でものを食べることができ、考えることができた。二つの頭は大変仲がよく、一つのものを二つに分けて食べていた。また一方の頭が眠っているときには、必ず他の一方の頭が起きて、番をしていた。
 ある日のこと。
 右の頭が眠っていたとき、左の頭のところに、うまそうな木の実が転がったきた。左の頭は考えた。
「これを、右の頭に黙って食べてもいいだろうか」
 食べるのは自分でも、腹に入ってしまえば同じである。腹の膨れるのはどちらも同じだから、問題はなかろう。そう思った左の頭は、黙ってその身を食べた。
 さて、びっくりしたのは右の頭だ。いい気持ちで眠っていたら、何やら我が身の腹の中に転がってきた。そこで、
「お前、今何か食べたな」
「いかにも」
「なぜ黙って食べた」
「それは食べるのは自分だが、腹の膨れるのは同じだから別に問題はないと思って食べた」
 しかし右の頭は言った。
「それはその通りに違いない。だが、それをうまいと思えたのは、お前だけではなかったか」
 そのことがあってから、二つの頭は別々に食べるようになった。
 ある日、二つの頭のところに、赤い木の実と白い木の実が転がってきた。赤い木の実も白い木の実も、それ自体は何でもないが、二つ同時に食べると合わさって中毒を起こす。
 喧嘩をしていた二つの頭は、同じ一つの腹であるのに、それを忘れてめいめい勝手に食べ始めた。やがて一方の頭が青くなり、次いで他の頭も青くなっていった。
 命を共にする鳥とは、ここから名づけられたのである。

 共命之鳥にまつわる話は他にもいろいろあるが、共通しているのは、二つの頭の中が悪く、自分の利益だけを考えて行動した(大抵相手に毒を盛って殺そうとする)結果、共倒れになってしまう、というものだ。
 極楽にいる鳥の中で、最も仏教説話的な存在である共命之鳥。極楽では、「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道。他を生かす道こそ己の生かされる道」と鳴き続けているのだそうだ。

 ということで、ここまで「極楽の六鳥」を見てきた。
 これらの鳥について、『阿弥陀経』の中でお釈迦さまは、「これらの鳥が罪の報いとして鳥に生れたのだと思ってはならない。 なぜなら阿弥陀仏の国には地獄や餓鬼や畜生のものがいないからである」と言っている。
 また、「その国には地獄や餓鬼や畜生の名さえもないのだから、 ましてそのようなものがいるはずがない。 このさまざまな鳥はみな、 阿弥陀仏が法を説きひろめるために、 いろいろと形を変えて現されたものにほかならないのである」と言い、極楽浄土に鳥がいる意味を示している。
 鳥に見えるけれども、本当は鳥ではなく、阿弥陀仏の教えがそのような形になっているだけだ、ということであるらしい。

 『阿弥陀経』には、「このさまざまな鳥たちは、 昼夜六時のそれぞれに優雅な声で鳴き、 その泣き声はそのまま五根五力ごこんごりき七菩提分しちぼだいぶん八聖道分はっしょうどうぶんなどの尊い教えを説き述べている」となっていて、鳥の声の示すところの教えについて書かれているのだが、その内容についての詳しい話は、ここではやめておこう。

 ともかく、鳥の声は仏の教えである。
 これを「極楽じゃ鳥まで説教してくるのかよ」と取るか、「いつでもありがたい話が聞けるのだなあ」と取るかは、あなた次第である。

<参考>
阿弥陀経のことばたち
 著者:辻本敬順 発行:本願寺出版社 2001年

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かんちゃ
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