ココカラ創業者・ムルガンのお話:最新テクノロジーの研究から転じて「ココピートの開発製造を始めた理由」
「何をしたら世界中がハッピーになれるのか」を考えたら、ココピートにたどり着いた
ココカラ合同会社は、2012年よりココピート(ヤシガラ培土)の開発から手掛けて製造販売を行なうとともに、世界の農業を持続可能なものとするための啓蒙活動を推進してきました。南インドのセーラムの自社工場では、地産のヤシガラを原材料に、均一性を保持したココピートの製品開発及び製造を行っています。
この記事では、ココピートの開発と製造を担当するココカラ合同会社インド法人代表のアルール・ムルガンが、かつて働いていた日本企業の研究職から転じて、ココカラ合同会社を大原代表と共同で設立し、ココカラピートの開発をするに至った経緯を公開致します。
こんにちは!アルール・ムルガンです(ココカラ合同会社/インド法人代表)
ココカラインド法人代表のムルガンです。前職はフェローテック社の社員として磁性流体の研究をしていました。私が最先端のテクノロジーの世界から転じ、大原と一緒にココカラ合同会社を立ち上げてココピートの開発と製造をするようになったのは、日本への報恩と故郷のインドに暮らす人たちにライフチェンジの機会を作りたいと思ったのがその理由でした。
生まれ育った南インド・ポンディシェリと家族のこと
私の生まれた南インド・ポンディシェリは、タミルナドゥ州の州都チェンナイから150キロほど南下した海に近い町です。かつてフランス領だった歴史から、市街地の一部には、欧風文化とインド文化が混在した独特の雰囲気を持ち合わせる街並みが残っています。
気候は、年間を通じて気温が高く、乾季(12月から3月)は極端に降水量が減って草木は朽ちますが、雨季(10月〜11月)は降水量が激増して湿度が上がり、作物の育ちやすい環境になります。そのため農業従事者が多く、米、サトウキビ、ココナッツを栽培している地域です。
母はカシュー農園を経営する農家の出身でした。わが家の食卓には、母の実家の農園で採れた作物を使った料理が並びます。食事どきは、家族のほか、その日その時に初めて会ったばかりの人にも分け隔てなく声を掛けて自宅に招き入れて食卓を囲むのがわが家の習慣でした。賑やかに大勢で食事をしていたのを記憶しています。
「大地を耕して作物を栽培するのは、最も尊い仕事です。あなたたちがこの先の未来で、どんな立場になろうとも、田畑を耕し続けていってね。」と、母は折あるごとに言っていました。農作業がいかに尊い仕事であるかを、私たち兄弟に教えておきたかったのだと思います。
父は教員で、兄弟は5人、私はちょうど真ん中の3番目です。兄は歯科医になり、姉は農業に従事、妹はエンジニアをしていました。母は、私が12歳のときに亡くなっています。
インドを離れ、日本で最新テクノロジーの第一線に
10代のときに見上げる空の美しさから宇宙に想いを馳せるようになり、森羅万象を追究してみたいと思うようになりました。その入口として大学では物理学を専攻し、マテリアルサイエンス、ナノテクノロジー、そして磁性流体の研究に没頭することになります。NASAエンジニアのアイデアからはじまった世界のトップシークレットである磁性流体は、当時、ごくわずかな限られた人たちが手がけるクローズドな分野でしたので、世に出ている情報も少なく、研究には時間を要しました。3年の予定だった院生生活は8年におよび、すべての課程を修めたときにはすでに35歳でした。
大学院を出た後は、世界でも数少なかった磁性流体を扱う企業で働くことを決め、インドから日本に渡りました。日本の企業が「一緒に働かないか」と声を掛けてくれたのです。私はその企業の研究員として働くことにしました。
ビジネスと研究開発がタイアップできる企業で、十分な資本を元に研究ができるというのは、私のような研究職に就いている者からすると、かなりの幸運でした。もしこれが合理性を先んずる会社だったらアイデアのみを買い取られるだけで、私の今の立ち位置を得ることはなかったように思います。
転機を与えてくれた日本への感謝と故郷インドへの想い
日本に渡った日を境に、私の人生は一変しました。これまでのインドの日常では考えられなかった多くの知恵を授けられ、色々な経験の機会にも恵まれました。このようなチャンスを与えてもらえたことに感謝するとともに、自分のような者にギフトをくれる土壌を持つ日本は、とても素晴らしい国であると思いました。
ビジネスの現場での研究は、大学でやっていたものとは一味も二味も違うものでした。自分のアイデアが製品となり、世の中で採用されるようになると、その先に作り出されていく未来を感じました。また、研究に一辺倒だった自分が、マーケティングや会社経営の実務を担い、アメリカ支社の社長として赴任していたときには、世界のあちこちでつながった人たちとの間で対話を重ね、気づきと触発を受けました。無我夢中で目の前のことに取り組むだけで精一杯の毎日でしたが、充実と感謝に満ちた貴重な時間でした。
思えば、インドを離れ日本に来ることを決めたときには、このような機会をいただけるなど期待も想像もしていませんでした。でもそのチャンスをいただけたおかげで、私は次に自分が進むべき道をイメージできるようになれたのです。
現在の南インドでは、私が得たような機会を手にできる人は限られた人たちです。でも自身をクリエイトできるようなチャンスは、数があるに越したことはありません。私はこのような機会を、あのときの自分と同様の境遇にいる人たちにシェアできたら、と思うようになったのです。それが実現できれば、故郷・南インドは今以上にもっと魅力的な地域になることでしょう。
何をしたら世界中の人たちがハッピーになるのかを考えてみたら
愛する故郷・南インド、そして自身の生き方を一変させてくれた日本のために、何かアクションを起こすことにしました。「自分にできることは何か」と考えを巡らせていると、必ず思い出すのが幼い頃に聞かされた農作業の尊さを語る母の話です。私たちはファーマーが作った農作物を口にして、生きながらえています。言ってしまえば、たしかに地球上にいる人類を生かしているのはファーマーであると言ってもいい。この考え方を間違いだという人は、恐らくいないはずです。
最新テクノロジーの研究から転じてココピートの開発製造を始めた理由
日本には美味しい作物を作る農業技術があります。でもそれは、はるか昔から続く伝統的な農業スタイルで行われていて、見ているとわかりますが非常に重労働です。にも関わらず、気候変動や農地の枯渇、農業を統括するシステムなど様々な要因によって、労働に見合っただけの稼ぎを得られないという厳しい現状があります。
それに対して南インドの喫緊の課題は、早急な雇用機会の創出によるフードセキュリティーの確立です。複雑な家庭事情を抱える家庭も多く貧困層がまだまだ厚いのが現状で、食べること自体にも不自由さがあります。
私はここまでに考えが至り、迷いなく磁性流体の研究員のキャリアから外れる道を選択しました。
その後にビジネスパートナーとなる大原に日本で出会い、対話を重ねたことも力になりました。彼は私のこれまでのキャリア、今の気持ち、そしてこの先で私がやりたいことを理解してくれたうえで、「一緒に仕事をしたい」と言ってくれたのです。
世界のフードセキュリティーの確立を目指して会社を起こし従事することに舵を切った私は、まずはインドに雇用機会を作り、今後の日本の農業を発展させられるアイテムとして、故郷・南インドで産出するヤシガラを原料に製品化したココピートの開発製造をはじめました。
地球上のすべての人が食卓を囲んだら、世界はひとつになれる
「世界はひとつです。人々はみんな兄弟であり姉妹です。地球上のどこかで争いはあるけれど、それを乗り越えたら世界はひとつになれます。」これは1000年もの前からインドに伝わるフレーズを意訳したものです。
食卓を囲める人たちは、平穏な暮らしができます。平穏な暮らしができる人たちの集まる村は、平和です。平和な村が集まれば、そこは幸せな国になります。やがて幸せな国が集まって、世界中がハッピーで平和になれるわけですから、究極、すべてのはじまりはひとつの食卓を囲むことから始まります。
であるならば、私たちが担っていく使命の大きさは計り知れないほどのものであり、今起きている地球上の様々な問題に目を凝らしていけば行くほど、この道から退くことはできません。
幼い頃の母との思い出は、私の生きる力です。あの頃、毎日我が家に人々が集まってきてワイワイと食卓を囲んでいる風景の中にある母の優しい笑顔を、今、懐かしく思い出しました。
(取材日2024.8.14)
【取材執筆/遠藤美華 】
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