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「才能」ってどんなもの


未来を考えるために 第四回

 今回は、「才能」というものについて
考えてみようと思います。
 「才能」って何でしょう?
 持って生まれたもの?
 努力して身につけたもの?
別の角度から見るなら、
 他の人が思いもしないような考えを
 持てること?
 それとも必ず表現を伴うもの?
 これら全部が含まれる?
 他にも要素がある?
……難しいですね。
 ここではまず、昔から言われている
「氏(生まれ)か育ちか」
を軸に考えてみることにします。

○氏(生まれ)とは?

 生まれといったら、現代ではまず
遺伝子でしょう。遺伝子決定論の威力は
すごいものです。ある特定の性質、
特に身体的なものに関するものについて、
遺伝子が大きく関わっていることは、
ほぼ間違いないものと筆者も思います。
ただ、それがどの範囲まで拡張できるのか
と、それをどう評価するのかについては、
もう少しちゃんと考えた方がいいような
気がしています。

 まず範囲。遺伝の適用範囲を広くとれば、
選民思想のようなものを思い浮かべる方も
多いと思います。歴史上、選民思想は
掃いて捨てられるほどありますし、現在でも
絶賛量産中で後を絶ちません。だけど、
「どうして「地獄への道は善意で敷き詰め
られている」のか?」に書きましたが、
チワワとセントバーナードの差よりも、
人種とか民族とかの違いは小さいように
思われます。前者は物理的に交配できない
くらいの差異があり、後者にはそれがない
からです。

 個人的な意見では、集団が持つ選民思想の
類というのは、群れの分散期の思想なのでは
ないかと思われます。どういうことかと
いうと、群れの中でこれ以上の人口増加が
難しくなると、群れは分散(群れを一つの
ままとするなら拡大)しようとします。
空き地がないなら他の群れのナワバリを
侵すことになります。そういう貧して鈍して
余裕なくなっちゃった群れの構成員が、
「俺たちは他とは違って優れている」
「だから俺たちには隣の土地を奪うことも
許される」という思いを持つことによって
生み出される、ということです。
「優れている、だからもっと広がるべきだ」
と言うけれども、実は「もっと広がりたい、
なぜなら優れているのだから」という
逆転現象なのです。ただ広がりたいという
意思が寄り集まったところに、後から適当な
根拠が生み出されているのです。でも、
先にそういう意思があるから、広まって
しまうのだと思われます。
「ヒトは見たいものを見てしまう」
というやつです。

 なので、この種の言説には、実際に遺伝子
とか民族とかが関係していることはまずない
と考えていいように思われます。
生物としてのヒトはむしろ逆で、自由度の
高さ、寄る辺のなさといった「雑種の中の
雑種」的な要素が特長ですから、その不安が
遺伝とか血統とかへのこだわりを生んで
しまうのかもしれませんね。

 このように考えていくと、社会的な要素に
関して、遺伝によって決まるものはあまり
なさそうな気がしてきてしまいます。
社会の中での振る舞いは、雰囲気や状況など
外的な要因によって決まる部分が多そうです。
例えば引っ込み思案などの要素でも、
状況によって左右されたり、話したり
書いたりの経験や成功/失敗体験といった
生育環境の要因が大きいように思われます。
遺伝による影響は、どちらを選んでもいい
ような状況でどちらを選ぶか、という場合
くらいにしか現れない気がします。

 そして、このあたりのことが次の評価の
問題とつながります。つまり、「○○は
遺伝子によって決まる」はかなり雑な表現
なのではないか、ということです。ヒトは、
おそらく胎児の段階から栄養状態、外部環境
など膨大な量の情報を受け入れ続けて
形づくられ、さらに生後も更新し続け
られます。
 ヒトという生物がそうやって膨大な量の
インプットとアップデートを繰り返すことで
成り立っているのなら、初期状態で決まって
いるのは、外形的なものと、あとはせいぜい
何を選好(重視)しやすいか、という傾向
(性質)くらいなものではないでしょうか。
最初から選ぶものが決まっているのなら、
アップデートする必要なんてないのですから。
 養老孟司さんはよく身体と脳という
対立軸を使って、「個性とは身体のこと」
といった趣旨のことを書いてますが、
それもそのはずで、持って生まれたものを
個性とか才能とか呼ぶのなら、それは体型や
体格や体質といった、個人の身体的なもの
から大きく外れない範囲のものなのです。

 というわけで、才能を血統とか家系とか
だけに還元してしまうのは、かなり雑な
考えなのではないか、と思われます。
歴史的に見れば、良い家柄というものは、
良い育成環境を保障できる、という意味での
正しさが大きいのではないか、ということ
です。昔は今より格段にリソースが少な
かったのですから、持てる者と持てざる者
との差も今より歴然としていたことでしょう。
才能が遺伝子によって裏づけられるのなら、
王家とか貴族とかはもっともっとウヨウヨ
生き残り続けているはずです。
 そもそも、10代20代遡れば大概は共通の
祖先にたどり着いちゃう程度のシロモノに、
そこまでの差異はないんじゃないのかな、
という気がします。

○育ちとは?

 氏(生まれ)による差異がその程度の
ものだとしたら、環境さえ整えれば、
誰もが才能を開花できるのでしょうか?
筆者はこれに対しても懐疑的です。理由は
氏(生まれ)と同じで、ヒトは、おそらく
胎児の段階から膨大な量のインプットと
アップデートを繰り返すことで成り立って
いると考えられるからです。
 こういうふうに書くと、教育なんて
無意味だとか、逆に胎児の時から教育
しないとダメだとか思われてしまいそう
ですが、そういうことではありません。
筆者がここで示したいのは、
「再現不可能性」です。
 「氏か育ちか」という議論で「育ちだ」と
言うと、同じ環境にすれば誰もが同じように
なると思ってしまいますが、それは不可能
ですよ、ということです。たとえ胎内環境
から共通している一卵性双生児であっても、
自分と同じ姿かたちをした者を右に見て
育つのか、左に見て育つのか、あるいは
その背景に見えるものなど、差異はどこに
でもあります。一卵性双生児は他の場合に
比べて差異がかなり小さい、というだけの
話です。

 その上で、膨大な量のインプットと
アップデートを繰り返すのですから、やはり
何がインプットされるのかには、重大な
影響があるのは間違いないでしょう。ただし、
書いたように同じ負荷をかけたようで
あっても、個体による差異は現れます。
また、当然ですがアップデートを繰り返す
といっても、更新による変化は無限大では
なく、限界があります。
 勉強なんてやればいくらでもできるはずだ、
と思われる方もいるかもしれません。しかし、
育成環境の分を差し引いても、脳にどの程度
負荷をかけられるかは、例えば脳の活動に
どのくらい身体のリソースを割いても大丈夫
なのか、という形で内臓なども関わってきて
しまいます。ここには、どうあっても更新
できない限界とか、個体差としか言いようの
ないものがあります。
 もっとも、現代日本では、ありがたい
ことに、普通に暮らすのにそんなレベルの
差異がモノをいうことなんてほぼない
でしょうけど。

 あと、アップデートは繰り返されるの
ですから、継続しないと一時的な効果だけで
おわってしまうかもしれません。一夜漬け
では身につかないというのは、経験された
方も多いと思います。「勉強した自分」に
「勉強しなくなった自分」が上書きされて
しまう、ということです。
 もう一つ。アップデートという言い方で、
記憶などソフトウェア的なものに限定された
イメージを持つ方もいらっしゃるかも
しれませんが、そんなことはありません。
身体が成長期以降更新されないなら、
太ったとか鈍(なま)ったとかで悩むことは
ないはずですから。

 詩人の長田弘さんは、
「人の生き方の姿勢をつくるのは、
日々の習慣、人生の習慣です。」
と書いていましたが、まさにその通り
なのだと思います。

○才能とは?

 さて、結局、才能って、どんなもの
なのでしょう?
 持って生まれた、体型や体格や体質
といったものを基盤にしているものも
あります。当たり前です。身体を使ったり
魅せたりするアスリートやモデルなどは
その典型と言えるでしょう。
 でも、その人たちだって、何の努力も
せずに才能だけで何とかなったわけではなく、
そういうアップデートを重ねる必要が
あったことも間違いないでしょう。
 それに、スポーツの世界では、持って
生まれた体格差の不利を工夫と努力という
アップデートで覆した物語も数多く生み
出されています。まあ、そういうのは
珍しいから目を引くのであって、有利が
そのまま活かされているのが当たり前だ
という前提があることも物語っています。

 では、体型や体格や体質と関係なさそうな
ものに関しては、育ちだけで何とかなるの
でしょうか?
 これもそうとは言えないように思われます。
冒頭で少し書きましたが、例えば絵や文でも、
その才能を「他の人とは違う見え方
(考え方)をしていること」
と、
「それを表現する技能」
が同じとは限らないからです。
「表現的には拙くても惹きつけられる作品」
もあるし、
「表現的には凄くてもまるで惹きつけ
られない作品」
もあるということです。

 さらに、ここに時間という要素が入ります。
才能があると評価されても、時が経って人々の
記憶から失われていってしまったものなど、
膨大な数にのぼることでしょう。歴史的には、
現在伝わっている作品や作者なんて、
当時あったものの量からすればほんの
一握りでしかないでしょう。
 逆に、同時代には評価されず、死後随分
経ってから評価される、ということも
あります。

 このように考えていくと、才能というのが
何だかよくわからなくなってきてしまうの
ではないでしょうか?
そのくらい、この単語には様々な要素が
含まれるように思われますが、もう少し
粘ってみましょう。

 先ほど、評価と書きました。実は才能
というのは、自分ひとりでは決められない、
他人の評価によって決まるものです。
そして、評価というのは、その時その時に
下される、極めて瞬間的・刹那的なもの
でもあります。
 また、他人が下すものである以上、
他人の想像の範囲内に収まっている必要も
あります。例えば、野球の大谷選手が、
打者として全打席どころか全球ホームランし、
同時に投手として全球相手打者のバットに
かすりもしないようなボールを投げ続ける
ようなら、彼は
「もの凄い野球選手」
ではなく、
「異常者」
と評価されてしまうことでしょう。もっとも、
現実に彼が達成した「ダブル規定到達」
なども充分異常なんですけど。

 まとめると、才能とは、社会的な評価
であり、それは現在的なものでもある。
そして、その現在の社会の範囲内に収まる
程度の逸脱である、と言えるのでは
ないでしょうか。
 こう考えると、才能ある者と社会不適合者
との曖昧な境界――芸術家は時に社会
不適合者に近い者でもあること――について、
説明つきます。また、社会と自己の変化に
よって才能が失われたり、発見されたり、
過去から見つかったりする現象も
理解できます。

 最後にもう一度繰り返しますが、ヒトも
社会も変化していくものです。だから、
それに依拠している才能というものに
関しても、固定した正解はおそらく存在
しないものと思われます。もしもこれを
固定的なものとみなしたら、それはいずれ
不適応を起こします。それは血統・家柄
だろうとエリート教育だろうと同じことです。

 「才能」というのがこういうものだから、
ヒトはこのことばに魅入られるのでは
ないでしょうか?
 それは社会的な適応=評価を求めて
止まないヒトの性(さが)なのかも
しれませんね…というところで
今回の話は終了です。

主な参考文献

養老孟司著 『まともな人』
(中央公論社 2003) 中公新書1719

養老孟司, 牧野圭一著
『マンガをもっと読みなさい』
(晃洋書房 2005)

長田弘著 『なつかしい時間』
(岩波書店 2013) 岩波新書(新赤版)1414

山下泰平著 『「舞姫」の主人公を
バンカラとアフリカ人がボコボコにする
最高の小説の世界が明治に存在したので
20万字くらいかけて紹介する本』
(柏書房 2019)

映像作品

NHK『最後の講義 福岡伸一』

 次回は、「敵か味方か」という区分に
ついて、取り上げたいと思います。
『もしかしたら、「敵か味方か」だけでは
わからないのかもしれない話』
というタイトルの予定です。

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