A.I. ~センスない映画の世界#4~
トップ画引用元:映画.com
ようこそセンスない映画の世界へ。
センスない映画とは?
メジャー娯楽作品。
その中でも評価が高く、ライト層コア層関係なく長年ファンに愛されるものではない。
かと言って後々カルト的な人気が出たわけでもない。
話題になること自体があまりない。
本編の突っ込みどころをあげればきりがない。
しかし好きなシーンが突っ込み所を凌駕しているため嫌いになれない。
今回はスピルバーグ監督作品。ネタバレ!
A.I.(2001年)
ロボットが実用化されている近未来。人間はオーガと呼ばれ、ロボットはメカと呼ばれている。デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)は両親を永遠に愛し続けるロボット(メカ)として開発された存在。不治の病で冷凍保存されている息子マーティンを持つヘンリーとモニカ夫婦の元に試験的にやってくる。愛のプログラムをモニカによって起動されたデイビッドは、モニカと実の親子のような関係を築きかけるが、実の息子マーティンの病気が治り自宅に帰ってくる。様々な衝突や事故のせいでヘンリーはデイビッドの廃棄を主張。モニカはデイビッドを廃棄するのは忍びなく、森でデイビッドを捨てる。デイビッドは、スーパートイのぬいぐるみテディと、メカの解体ショーであるジャンク・フェアで知り合ったセックス・ロボット、ジョー(ジュード・ロー)と共に、ロボットを人間にしてくれる「ブルー・フェアリー」を探す旅に出る。人形が人間の男の子になる「ピノキオ」をモチーフにしている。
あのー…この映画覚えている人います??
原案はスタンリー・キューブリック、監督はスティーブン・スピルバーグ、主演は天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメントですが…
もしもーし。誰かいますかー?もしかしてこの映画なかったことにされてる??
この映画の予告編が公開された当時、「めざましテレビ」でその映像が気がおかしくなるほど繰り返し繰り返し再生されていて、小学生だった自分は「すごい映画がやってくるのはわかるけどしつこくね?」と思ったものでした。
その後映画がレンタルVHSになってから両親と鑑賞し、三人とも「なんかよくわからない映画」と結論付けて終わった気がする。
そして数年前にどういうきっかけだったか忘れたけど見返してみて、「あ、結構いい映画だっだんだ…」となりました。いつも通り最初に好きなところ、その後突っ込み所を挙げます。
好きなところ
プログラムされた愛とは、呪いである
この映画の良いところはこれに尽きる。デイビッドは親を永遠に愛するようにプログラムされた存在です。しかし本当の愛は命令ではなく自然に発生するもの。デイビッドがモニカを慕う様子は、一見本物の愛のように見えて違う。
例えば、デイビッドがモニカに「僕はママが大好き。いつまでも死なないで…」と言うシーン。ここ、すごく不気味に感じたんですよ。
あと、自分はユニークな存在と信じていたデイビッドが、同じ型のロボットと出会い、「ママは渡さない!」と突然取り乱してそのロボットを破壊するシーンも怖かった。
これらのシーンが恐ろしく感じられるのは、プログラムされた愛が利己心や独占欲に基づく、「執着」に他ならないからです。デイビッドは親への「執着」を呪いとしてかけられてしまったのです。
その後、旅の果ての2000年後の未来で、デイビッドは高度なAIである「プログラマー」にモニカをクローン人間として甦らせてもらう。
モニカと再会した後のデイビッドは前半にあった不気味さを全く感じさせません。モニカが目覚めてから、デイビッドはまずモニカが好きなコーヒーをいれようと提案します。自分がして欲しいことを要求するのではなく、モニカがして欲しいことを優先するのです。
クローン人間の寿命はわずか1日ですが、デイビッドは「ずっと自分のために生きてて欲しい」とは言わずに1日を精一杯楽しみ、モニカを混乱させないように気を使います。
この時のデイビッドは、自分を抑え、相手を第一に考える愛を実践しています。これはプログラムではなく、自然に芽生えた愛にしかできないことではないでしょうか。
デイビッドのプログラムされた愛=呪いはいつとけたのでしょう?2000年間氷の中に閉じ込められている間にプログラムが故障したのかもしれないし、プログラマーに目覚めさせられた拍子に呪いがとけたのかもしません(こっちの方が眠れる森の美女みたいでよりおとぎ話っぽいかも)。
ラスト、デイビッドはモニカと共に眠りにつきます。これは睡眠なのか死なのか議論がわかれるけど…どっちにしろ、モニカを自発的に愛したデイビッドは「人間」になったのだということでしょう。睡眠をとるのも死ぬのもオーガしかしないことなので。
ちなみに、キューブリックの生前からこの話はピノキオをモチーフにすることは決定していたようなので(アイズ・ワイド・シャットのBlu-ray映像特典より)、ピノキオの物語にならって「人間になった」という表現にしていると思いますが、個人的には「オーガだろうがメカだろうが、デイビッドは人間への奉仕から解放され、自由意思を持つユニークな存在になったのだ」と解釈しています。理由は突っ込み所で後述します。
ハーレイ・ジョエル・オスメントの演技
前述した、呪いがとける前と後で全く違う表情を見せるオスメントの演技で、彼が本当に素晴らしい俳優だったのだとわかる。彼のキャリアのピークが子役時代に終わってしまったのは残念。まだ俳優活動はしてるけど(最近だとAmazonオリジナルドラマBOYSにゲスト出演してた)。ジャッキー・アール・ヘイリーや、キー・ホイ・クァンみたいにいつかカムバックしないかな…
突っ込み所
両親が最悪
これは突っ込み所というか意図してやってるんだろうけど…デイビッドの両親がね、アレすぎるよね。公開当時もデイビッドを森に捨てるシーンについていけない人が多かった気がする。
あと単純に、父親のヘンリーの行動が謎すぎる。デイビッドを試験的に受け入れるのは、妻モニカのメンタル向上のためだったんだろうけど、デイビッドの愛の対象をモニカだけにするなよ。そこは自分もいれてもらえ。絶対不均衡な関係になるじゃん。
あとデイビッドを破棄したいんなら自分で車運転していけ。モニカにドライブさせたらあかん。そしてモニカもそれに従うなよ…
メカに責任を負う気などまるでない両親の一連の行動のせいで、彼らがジャンク・フェアでメカたちをぶち壊して盛り上がる人間以下に見える。
ただ両親の描写はスピルバーグなりに、精一杯気を使っているのかもしれない。キューブリックなら、もっと容赦なくドライに描いた気もする。
人間賛歌?
高度に発達したメカであるプログラマーは、遥か昔に絶滅した人間の遺物を発掘したり、クローン人間として甦らせたりしています。
プログラマーはデイビッドに「人間は素晴らしいものだ」的なことを言うんですが、劇中の人間のほとんどがどうしようもないので、「いや、そんなことない!人間は最悪だ!!」とオーガを代表して反論したくなった。むしろ2000年後の世界で人間が絶滅したと知って、すごくスッキリしたよね。
この映画に出てくる唯一まともな人間は、序盤、ジョーがモーテルを訪れるシーンで出てくる受付のおやじ、Mr.Williamson。許可証を見せて歩くようにジョーに忠告してくれる。このモーテルのおやじだけがメカに対して良心を持っている。しかも、これ見よがしの善意ではなくさりげないところがいい。
キューブリックは生前からこの映画の監督にスピルバーグを指名していて、自分は製作に専念するはずだったらしい。何故なら「自分が監督すると哲学的になりすぎるから」(これもアイズ・ワイド・シャット映像特典より)。
キューブリックなら、この人間賛歌の要素はなかっただろうし、プログラマーをやけにハートウォーミングなキャラにしなかったと思う。スピルバーグって人間について楽観的に考えてそうだよね。あと人間の考えこそがスタンダードと悪気なく思っていそう(本当に勝手なイメージ)。
ジョーが「これからはオーガではなくメカの時代」と言ったのは結果的に正しかったし、デイビッドが人間になりたいと願っていたのは、あくまでモニカに愛されるため。でもラストで、愛のプログラムから解放されたデイビッドはモニカのことを心の中で偲びつつ自由意思で生きていける存在になったんだから、人間になる必要はないし、人間になりたいと思う理由がもうない。
それでも彼はロボットから「素晴らしい」人間の段階に達したのだ、という雰囲気が少しだけ滲んでいるのが気になる。まあ、そのメッセージを全面的に押し出しているわけではないんだけど。
だから前述したように、作り手(キューブリックかスピルバーグかわかりませんが)の意思を精一杯好意的に汲み取って、オーガだろうがメカだろうが関係なく、デイビッドはユニークな存在になったのだ、と思うことにしました。
この映画の評価がそこまで高くないのは、「近未来版ピノキオ」としての側面を強調しすぎたせいなんじゃないかな。その視点で見ると、本当にそのまんまピノキオなので意外性がなく、人間がロボットよりも上位に置かれている雰囲気が、悪い意味で能天気な感じ。
でも私は、この映画の眠りの森の美女の側面に気づいて、とても感動しました。皆さんはどう思われますか?
あ、そういえばロボットの自由意思についてはセンスない映画一発目の記事でも触れました。よければどうぞ。
それではこの辺で。