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レディ・マクベスがかなり良かった話と、切り裂き魔ゴーレムとの比較

最近レディ・マクベスを見て、もっと早く見ときゃ良かった…と思いました。
Amazonprimeでずっとオススメ欄にあったのに何となく見る気がしなくて、私がはまっていたアメリカのドラマ「SHOGUN 将軍」に按針役で出ていたコズモ・ジャーヴィスが出ていると知って急に見る気になり、今は主演のフローレンス・ピューに謝りたい気持ちでいっぱい。

思いっきりネタバレ。

レディ・マクベス(2016年)

引用元:映画.com

あらすじ

あらすじをアタマからオチまで書きます。
19世紀末のイギリス、17歳で裕福な家に嫁いだキャサリン(フローレンス・ピュー)は、自分のことを孫製造機としか思っていない舅に屋敷に閉じ込められ、何故か自分を抱こうとしない歳上の夫にフラストレーションをためている。夫と舅が留守にしていたある夜、キャサリンは新しい使用人セバスチャン(コズモ・ジャーヴィス)と肉体関係を持ってしまう。情事が舅にばれ、キャサリンは舅を事故に見せかけて殺す。その場にいた黒人のメイド、アナ(ナオミ・アッキー)はショックで口が利けなくなる。
やがて夫にも情事がばれてキャサリンは夫を殺しセバスチャンは死体を隠す。キャサリンはセバスチャンを新たな屋敷の主にしようとするが、夫と黒人女性との間に私生児の男児テディがいたことが発覚し、テディが屋敷を相続する(と思われる、多分)。テディが川で溺れて昏睡状態となったあと、家を出ていこうとするセバスチャンを引き留めるため、キャサリンはセバスチャンに手伝わせてテディを殺し、テディは昏睡状態のまま亡くなったようにみせかける。しかしキャサリンによる他殺が疑われ、罪悪感にかられたセバスチャンが自分たちの罪を告白するが、キャサリンは言い逃れ、アナとセバスチャンが殺人の罪で捕まり、キャサリンが一人屋敷に残るところで映画は終わる。

すごく簡単に言えば、抑圧されていた女性が間男への執着のせいで変な方向に吹っ切れてしまい、人を次々殺していく。

感想

この映画で最も良いと思ったのは、キャサリンを殺人に掻き立てる理由を「女性への抑圧」だけに限定していないところ。
抑圧というのは本当に本当に精神に悪影響(残念ながら実体験から言っている)。
でもいくら抑圧され軽んじられた女性だからと言って、何の罪もない、しかもキャサリンになついているかわいいテディを殺すところはドン引きですよね。正直、舅や夫はかなりムカつくので可哀想とか1ミリも思わなかったけど。

じゃあ他に何の理由があるのか?
セバスチャンへの愛?
それとも肉欲?
多分どっちも。
ここではその2つを合わせて、肉体的な愛と呼びます。
この映画はロシア人作家ニコライ・レスコフの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」という小説が原作のようですが(未読)、同時代のロシアの文豪レフ・トルストイは「アンナ・カレーニナ」で精神的な愛と肉体的な愛について説いています。
しかも興味深いことに、レスコフとトルストイは交流もあったみたいですね!(Wikipedia情報だけど)

ここは私が下手に説明するよりも、同じくロシア人作家ウラジミール・ナボコフ(ロリータ・コンプレックスの由来となった小説「ロリータ」の著者。ただの天才)の「アンナ・カレーニン」(ナボコフはロシア語の正確な命名法に従って、カレーニナと呼んでいない)の解説を引用させて下さい。

ここでトルストイが伝えようとする本当の教訓の要点が明らかになる。すなわち、愛がもっぱら肉体的愛であるということはあり得ない。なぜならその場合、愛は利己的であり、利己的であることによって、愛は何かを創造する代わりに破壊するのだ。

ナボコフのロシア文学講義 下

これは本当に普遍的な教訓で、現代にも肉体的愛に振り回される人はたくさん、たーくさん
いますよね。特に若いうちは精神的な愛と肉体的な愛を混同しがち。キャサリンは17歳だから、そりゃわからんよ…
キャサリンとセバスチャンが一緒にいるシーンはほとんどSEXシーンで、やっとまともに会話したと思ったら、「私はあなたにどこまでもついていく。信じないならいっそ殺すわ…」と愛の告白に見せかけた脅しをかましてくるキャサリン。セバスチャンは映画の最後に「こんなの愛じゃない!!」と叫ぶんだけど、君ここで言うべきだよ?その台詞。にやにや笑ってキスしている場合じゃないて。

結果キャサリンの肉体的愛は周囲を徹底的に破壊します。ただ、アンナ・カレーニナと原作のマクベス夫人は自殺するのに対し、キャサリンは最後まで生き残るというのが対照的ですね。ここは現代的な解釈なのかも。私は社会の生け贄にはならんぞ、みたいな。

とまあ、大多数の人が理解できない、キャサリンがテディ坊やの殺人へと至る過程は、抑圧からの解放と肉体的な愛の二本柱によって支えられているため、私にとっては物語の展開に無理がなく感じられました。
いや、二本柱くらいじゃやっぱり理解できないよ!50本くらい頂戴よ!という人もいるでしょう。
私も決して、キャサリンの行動に共感しているわけではありません。ただ二本柱のおかげでキャサリンの思考回路が見えた、という意味。
それに主人公に共感できれば良い映画というわけではないと思うんですよ。むしろ、作品を評価するのに共感は最も邪魔な存在。
共感や社会的メッセージを全て飛び越えた先に見えるもの(気恥ずかしい言い方をすれば芸術)がこの映画にはあると思います。絶対的正義以外のものが見たいという、今の気分にもぴったり合っていたし。

それにしても、セバスチャンとSHOGUNの按針はどっちも粗野なイケメンで人妻と肉体関係を持つ、とキャラが被りまくりだったな。SHOGUNのキャスティング担当の人もやっぱりこれを見たのかな。
最初の方はアナに対する仕打ちとか、本当にゲス野郎なんだけど、後半はキャサリンよりはだいぶマシな人間になれたみたいで良かったね。それでもやっぱりトルストイにめちゃくちゃ嫌われそうなキャラ&関係性だった。

他にもフローレンス・ピューの演技とか、序盤、中盤、最後と全て可哀想なアナとか、上昇志向ありまくりなテディ坊やの祖母とか、語ることはいくらでもある。色んな要素がぎゅっと詰め込まれた作品でした。

あ、ちょっと、まだ行かないで!

この映画見終わったあと、けっこう前に見た切り裂き魔ゴーレムという映画を思い出したんですよ。そっちとの比較も書かせてください。これもネタバレ!

切り裂き魔ゴーレム(2016年)

引用元:映画.com

あらすじ

これもアタマからオチまで書きます。
ヴィクトリア朝時代のロンドン、娼婦や一般庶民などが残忍に殺される連続殺人事件が発生。犯人はゴーレムと呼ばれている。刑事キルデア(ビル・ナイ)は劇作家のクリーを容疑者の1人(=ゴーレム)として挙げるが、彼は既に死んでおり、妻のリジー(オリヴィア・クック)が夫の毒殺容疑で逮捕されていた。裁判所で明かされたリジーの生い立ちに深く同情したキルデアは、クリーは自分の犯行が明るみにでることを予期して自殺したのではないかとにらみ、ゴーレム事件の解決と、リジーの釈放を目指し奔走する。その中で、キルデアはリジーの境遇、一流の女優になるというかつての夢、夫との複雑な関係を、獄中にいる彼女から聞く。最終的にクリーがゴーレムであるという証拠をつかんだ!と思ったキルデアは絞首刑にかけられる寸前でリジーを救うが、リジーこそゴーレムであるという結末が彼を待っていた。リジーは歴史に名を残す殺人鬼として知れ渡ることを望み、絞首刑が実行される。

感想とレディ・マクベスとの比較

この映画はレディ・マクベスと同年にイギリスで制作されたようです。日本での公開年は全然違うけど。
この映画も、不憫な女性が社会(もしくは男)に痛め付けられた結果、恐ろしいことを引き起こすという話。レディ・マクベスと似た主題で、時代もざっくり言えば一緒(あくまでもざっくりだけどね)。

リジーは貧しい母子家庭に生まれた婚外子で、幼い頃から児童労働をさせられ、身体的、性的虐待の被害者であり、男達から軽んじられています。
社会は弱者を生け贄として血を求め、ゴーレムはその期待に応えただけ。つまり社会=ゴーレムで、狂った社会がリジーを恐ろしい怪物に変えてしまったのだ…みたいなことだよね多分。

でもなぁ…

わからん…

わからんよ…

ゴーレムの被害者はどちらかといえばリジーと同じ立場の弱者たちで、その何の罪もない人の目をくりぬいたり、ステーキみたいに体を切り刻むというところがついていけない。被害者には子供も含まれているけど、レディ・マクベスのテディ坊やよりも遥かに残酷な殺し方。
これらの猟奇殺人の動機が、社会からの理不尽な扱い、という一本柱だけというのは少し無理があるような…殺人者として有名人になってやる!という名声欲??もあるのかなー。いや、やっぱり無理がないか?。自分には0.2本柱くらいにしか感じられない。さっきから柱柱うるさいなと思われるかもしれませんが、柱が一本だけだと人物がとても単純に見えてしまうんですよね。

いや、リジーの境遇は先にも書いた通り悲惨そのものなんだから、これくらいの猟奇殺人をして当然だ!このクソイギリス社会め!!と感じる人もいるかもしれないけど…とにかく殺人の手法がエグすぎて、そして突然別人に豹変したリジーによる殺人シーンを最後にまとめてダダダッと早送りモンタージュで見せられるから、理解のスピードが追い付かないというか…(二回見たけどやっぱり追い付かない。でもオリヴィア・クックの演技はいいと思う)

レディ・マクベスの感想でも言った通り、別に犯人に共感できなくても良いんです。でもキャサリンと違って、リジーの思考がどうも見えないからもやもやする。
それは多分、これは刑事キルデア視点から見た事件の全容であり、語られるリジーの境遇もあくまでキルデアに聞かせるために修正されたバージョンのものだからなんじゃないかな。
最初から一貫してリジーをPOVにして、ある女性の生涯&殺人日記にしたほうがよかったんじゃない?
実際、映画の最後でリジー視点で語られる劇中劇が上映されるけど、これナイスアイデアだよ。映画自体をそれにした方がいいと思う。

リジー視点の物語なら、リジーの理性のリミッターが完全に外れる瞬間が見られますよね?演じているオリヴィア・クックの演技が素晴らしいので、社会が作り出したモンスターが誕生する、説得力のある瞬間を見られるんじゃないかな。その瞬間さえあったなら…
ちなみに、レディ・マクベスではキャサリンの変化はシームレスに起こり、明確な瞬間は描かれないものの、前述した愛の告白/脅しのシーンで「これはもうアカン」感がかなり醸し出されていると思う。

リジーPOVバージョンをすすめる理由はもう一個あって、映画ではリジーの存在感が完全にキルデアを喰っているので、キルデア視点である必要性が感じられない。ビル・ナイは名優だけど、主人公のはずのキルデアは驚くほど存在感が薄い…
リジーPOVなら、キルデアは途中から登場する、女性を食い物にしない稀有な男(キルデアはゲイであるとほのめかされている)で、彼女を救おうとするがもう彼女は一線を越えてしまっていた…
こっちのビル・ナイの方がしっくりくるなあ。
でもキルデア視点の方が最後までハラハラできるじゃん!という人もいるだろうけど。

というわけで、良く似た主題を持つレディ・マクベスと切り裂き魔ゴーレムで異なっているのは、

主人公の行動を支える動機の数(二本柱VS1.2本柱)

物語の視点(主人公視点VS他者視点)

焦点となる女性の最後(生きるVS死ぬ)

だと思います。これらの違いによって、レディ・マクベスで浮かび上がってくるのは、生け贄になることを拒否する個人、切り裂き魔ゴーレムで浮かび上がるのは人間を食い物にする社会。そんなところでしょうか。

皆さんの見たいものはどちらでしょう?それによって、これらの作品を比較した相対評価は変わるでしょう。

それではこの辺で。








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