管長日記「寺の存続」解釈20241114

主に日本の仏教と宗教戦争、および日本の歴史における仏教の存続について述べられる。
確かに飛鳥時代、奈良時代以降は仏教は日本で中心的な思想であっただろう。そもそも初めから中国からは儒教などの思想も輸入されており、それらは官僚のものであり棲み分けもあったのだろうし、神社についても融合して収まっていた。
明治に入って、廃仏が起こったが、そんなにおかしなことでもないような気もする。江戸時代には儒教も普及し、あらたな思想も出てきていた。
昭和、特に戦後は、旧来の宗教は抑えられた。それに代わった人間性についての思想が現れたわけでもない。西洋の哲学思想が普及したとも思えない。科学や経済は必ずしも思想ではいし、困ったことに人間性といったことの扱いは弱い、むしろ嫌がる。精神的な医療としても、対価が要求されるので、思想、態度の水準では扱われないだろう。そして「宗教」というと胡散臭いとなる。プライバシーとかいって隠蔽の方向にあるのではなかろうか。
一般に、現在は多様性がよくいわれ、開示したうえで平和・平等とするようなコンセンサスがあると思うのだが、なぜだろう。

仏教であろうが、なかろうが、良いバランスが見いだされたらよいとおもう。

構成:
1.600年のお寺の法要のこと
2.宗教戦争
3.日本仏教のはじめの頃
4.江戸時代の頃

一通り聞いて思ったのだが、西洋、インド、中国と比べると穏やかなものなのではなかろうか。確かに日本では宗教「が」争う形態は弱かった。

■1.開創600年のお寺の法要のこと
当日の法要と法話のこと。
富士フィルムが創業90年。たしかにフィルムビジネスはほぼなくなってしまったが、生き残った。社名は変えていないようだ。

■2.宗教戦争
「世界には戦争が多く起こります。その中には宗教がもとになって争うものもあります。ただ仏教は争うことをしない宗教であります。異なる思想、宗教だからといって排斥しようとはしません。」

宗教戦争とは、「宗教上の衝突に起因する戦争。特にヨーロッパにおいて宗教改革後、カトリックとプロテスタントの間に行われ、政治的・経済的利害ともからんだ激しい戦争。」(『広辞苑』)

■3.日本仏教のはじめの頃
「仏教の伝来は公的には、西暦五三八年、百済の聖明王が使者を通して仏像や経典を送ってきたことからであります。その後崇仏・排仏の論争がおきていました。
崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争い、一時、廃仏派の物部氏の主張が通って、廃仏がなされたこともありました。
しかし、以後は、仏教は大筋において保護されていったのでした。」
ここのところは、重要だろう。宗教戦争だった、ともいえると思うのだが、滅んだのは物部氏であって、宗教の観点では、両方とも保護、というか栄える道筋になっている。

神仏習合という、「異なる宗教が同じところにお祀りされるという独自の形態になりました。」

「神仏習合」とは「日本古来の神信仰が新たに伝来した仏教と接触することによって生じた、思想・儀礼・習俗面での融合現象。」
「奈良時代には、神を仏教による救いの対象と捉えて、その救済実現のために神前納経(のうきょう)や神宮寺(じんぐうじ)の建立が行われた。また、神は仏法を守護するという護法善神説もみられた。
平安時代に入ると、仏・菩薩が仮の姿をとってこの世に出現したものが神であるとする、<本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)>が登場する。
本地垂迹説は、仏・菩薩が権(かり)に現れたものという意味で神を<権現(ごんげん)>と呼んだり、「八幡(はちまん)大菩薩」(八幡神)のように神に<菩薩号>を奉ずる~。」(『仏教辞典』)

老師の身近な経験からの用例「鶴岡八幡宮も明治維新までは鶴岡八幡宮寺といわれています。大塔があり、門には仁王像もありました。」
鎌倉は、文化的にいい土地柄のような気がする。

■4.江戸時代の頃

「それが明治になって神仏分離令が発行され、八幡宮ある仏教的なものをすべてが排斥されました」

「神仏分離」として「明治のはじめに維新政府がとった、神道と仏教を分離する政策。神道の国教化と、神孫としての天皇の宗教的権威確立のため、1868年(明治1)3月から諸社に対して下された、社僧の還俗強制、仏像を神体とすることの禁止、社頭からの仏具の除去、神職に対する神葬の強要、などを内容とする一連の指令をいう。」(『仏教辞典』)

その結果、「この神仏分離令は全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、多数の文化財が破壊され膨大な廃寺が生じたが、真宗を中心とする仏教界の反対を受けて、政府も沈静化を目指した。」(『仏教辞典』)

廃仏毀釈とは、「明治政府によって1868年(明治1)以来とられた神仏分離政策に伴う、寺院を破却し僧侶を還俗させるなどの仏教廃止運動をさす。
明治以前は全国いたるところで寺院と神社は神仏習合しており、大社においても別当僧が神官を兼ねたり、神体を仏像にしている例が多かった。檀家制度に支えられた寺院は経営が安定しており、神社を支配していることが多かった。幕藩領主もキリシタンの摘発業務である寺請状(てらうけじょう)の作成を寺院僧侶にまかせていたので、日本人全体がいずれかの寺の檀家になることが義務づけられていた。まさに国家仏教といってよい。
ところが明治政府は、天皇制国家を形成させるため伊勢神宮を国家の宗廟として、そのもとに国家神道政策をおしすすめ、全国の村鎮守クラス以上の神社から仏教的色彩を一掃するため神仏分離政策を行なったのである。
そして国家神道の先兵的役割を果す村鎮守の神主の身分を僧侶より引き上げる政策をとった。水戸学や国学の思想の強いところでは、これを機会に今まで僧侶の風下におかれていた神官たちが、廃仏毀釈運動として徹底的な仏教排斥運動を展開した。そのため地域によっては仏教寺院すべてを破却したところもあった。それほどではなくとも、仏像・経典・伽藍などが焼却された例は枚挙にいとまがない。この運動のもっとも激しかった代表的な地域は、薩摩藩・松本藩・富山藩・苗木藩・津和野藩、伊勢の神領、隠岐・佐渡などである。」(『仏教辞典』)

鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は仏教を破壊したのか』(文藝春秋):
「二〇一四(平成二六)年、ニューヨークで開かれたクリスティーズのオークションで、ある仏像が出品されたことが話題になった。それは、興福寺に安置されていた「乾漆十大弟子立像」を構成する一体であった。
現在、同寺に残る十大弟子立像は六体のみ。いずれも国宝に指定されているが、残る四体は廃仏毀釈時に散逸した。それが近年、海外で発見され、オークションにかけられたのだ。廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに三倍はあっただろう、と指摘している。
国の財産が失われただけではない。廃仏毀釈は、日本人の心も毀した。何百年間にもわたって仏餉(仏前に供える米飯)を供え続け、手を合わせ続けた仏にたいし、ある時、日本人は鉄槌を下したのである。」

文化財云々は、数が増えれば価値は減るし、直接に人間性や精神のことでもないので、何とも言えないが、老師の言いたいことは次である:
「今残っているお寺はそんな激動の中を生き抜いてきています。廃仏が起こるまでは、神仏習合だったのでした。それは日本の尊く、素晴らしい精神だと思います。
異なるものをも否定したり排除せずに共にお祀りしたのです。和らぎ慈しむ心こそ仏教の大切な精神です。寺が存続するのは有り難いことです。}

おそらく、仏教の印、活動としての「寺」のことと思う。

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