創作ノート 11
この第9章は、核心に触れる章だ。
「私」が宗教2世である家庭で育ちながらも、なぜか宗教者であることから除外されたまま成長して、なし崩しで脱会したのかどうかわからないまま、大人になっているという設定だ。
このなし崩しの状態で自分は2世ではなくなっているのだとしたら、それと無関係に生きていけばいいだけなのだが、もしかすると自分は登録されたままで、ある時に呼び出しがかかるんじゃないかというカフカの『審判』的なおそれが、「私」を縛っているというのが、一つ工夫した点でもある。
この『審判』的なおそれが、別居婚という状態を維持し続けている真相なのだが、それについてはドキュメントとしてわかりにくいのかもしれない。
この話には、なぜ「私」が別居婚を続けているのか、という問題が一つドキュメントとしてあって、妻や子どもに「私」が2世であるかも知れず、いつか呼び出されるかも知れないという恐れを言い出せずにいて、言い出せない割に宗教3世を作りたくないので、不自然とも言える状態で家族関係を維持しているという解答が与えられる。
「善」だなんだは、そうした真相の暴露への恐れがあろうとなかろうとできる話なので、今回は無関係に作っているのだけれども、本来このテーマを追求していく場合は、もっと関連づけて書いた方がいいのかも知れない。
この虚構の「私」とパッパルデッレがどういう関係にあるのかということについては、まあ、何というか、ごまかしてしまおうかな。自分はモテない問題とか、就職するのに氷河期で色々漂流したとか、物語化できる要素はある中で、もっと本質的に特殊な経験があるとしたら、「出自」とか「毒親」とか「貧しさ」とか「いじめ」とか「トラウマ」とかある中で、虚構の「私」に似た経験を持っていなくもない、ということなのかも知れない。
誰に何を告白しなくても、そのまま過ごすことはできるし、いまさら、「アレって実際自分はどうなっているの?」と父母に聞いて寝た子を起こす必要もないのかなと今は思うのである。妻や子どもにいまさら「ちょっとよくわかってない問題があるんだよ」という必要もないし、そのまま持っていけばいいだけのことである。解決されたんだかされていないんだかわからない、ちょっと居心地の悪い問題だけれども、共感を得る見込みもないので、そのままにして置いてる。もう50だしね。
というわけで、この章では、「私」をめぐるドキュメントが一つ解決された。解決されているように見えないのは、私の拙さゆえだろう。でも、作者としては伏線の一つは回収したつもりになっている。
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