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創作ノート 6

全体が出来上がって、神部さん、黒岩さん、私の三角関係がクローズアップされたことに気づいた。

すると、前々夜祭の六人との会話の、機能的役割が気になり始めた。

榊原さんとの会話はまるまる話の筋とは関係ない。

鬼頭の話も話の筋とは関係がない。

捨てて、弘海くんとの話だけに特化するか、六人の会話が黒岩さんと神部さんの「いじめ問題」に収束していくように書くのが一番よいかもしれない。

しかし、である。

榊原さんの話は、語らせてみたら、使いたい。

この話は、先日交替した学童の元会長のストーリーを脚色したものである。

少し、話をズラしているが、そこからインスパイアされていることは疑いようがない。

榊原さんは、濡れ衣を着せられたと、最後の段に書いた。現実にあったことを思い返すと、黒岩さんと榊原さんは明らかに徒党を組んでいた。しかし、現実通りに進行させるのもつまらないと思った。

実際、榊原さんはもっと俗っぽい人生を送っている。「俗っぽい」というとこれまた傲慢な言い方だが、あの神部さん不登校事件の首謀者の1人であったのに、自身を首謀者だと思っていない、ということが「俗っぽい」と思った。

川上未映子の『ヘヴン』や三浦しをんの『光』のテーマだと思うが、人間関係のもつれの中に置かれた弱い個人において、いかなる行為が「善」と言えるのかということについて、自分も考えた。

フィリッパ・フットの著作や、徳倫理学の著作において明らかにしようとしているテーマも、『ヘヴン』や『光』に共通していると思う。ただ、あまりに大きな暴力を設定すると、私にはそれを扱う力量がない。また、現在進行形の出来事の中で、徳、善、行為を選択させることはできない。

私には、過去のいじめ問題の風化された記憶の中で、徳、善、行為を思考することしかできない。ああすればよかったのかもしれない、という後悔の中で、徳に向かった善なる行為の可能性が見えればいいのかもしれない。

何を大きなことを言っていると思われると思う。

ウィトゲンシュタインは、善を超越的に考えることはなく、善に関する言語ゲームを記述するという態度でいたように思う。そんなウィトゲンシュタインの影響を受けたエリザベス・アンスコムやフィリッパ・フットといった「女性」哲学者が、どうして善をアリストテレス主義において再考しようと考えたのか。

ウィトゲンシュタインの助言としてフットが引用している言葉は、単に言語ゲームの多様性を引き出すための助言にほかならないと思われるのに、それがフットの著作のような自然的規範性としての善という発想に行きついたのか。

徳というと、「道徳」のことだと思われるが、原語はvirtueである。マキャベリの翻訳では、イタリア語だから、ちょっとニュアンスが違うのかもしれないが、virtueは「力量」とか「力」とか訳語が当たっていたように思う。

フィリッパ・フットが最後にニーチェについて論じるのも「徳」はいわゆるニーチェが批判した「道徳」ではなく、美徳、力量というアリストテレス読解の中で出てきた考え方だと思う。

ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーは、アリストテレスを精読してきた。フットもおそらく、この系譜と、同時に、ウィトゲンシュタインらの発想が合流したところにある発想なんだと思う。

その辺の哲学史、哲学学の知識があるわけではない。ダニエル・C・ラッセル『徳倫理学』とフィリッパ・フット『人間にとって善とは何か』の二冊と、ソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』の全三冊を読んで、そう思っただけのことだ。

榊原さんにいじめの件を追及し、その結果濡れ衣であった、という顛末を加えるか否か。

それでも鬼頭の話は、無駄のように感じる。

しかし、鬼頭は何もやらないことによるある種の善の行為の萌芽がある。

現実の鬼頭は、風体は平凡なのに、女にもてた。この小説に出て来る志村さんは、鬼頭のことを好いていた。志村さんは志村さんで、他の男たちから好意を寄せられていたのに。なぜ、鬼頭だったのか。鬼頭には、何か秘訣があるのではないかと思う。

だから、鬼頭の内的な記述も、外せない。

現実に鬼頭や志村さんは、いじめ問題とは関わっていない。クラスが実際は違ったからだ。この二人のコンビは、生徒会の中でかかわったが、実際に良いコンビだった。愛情があるのかないのかわからないが、良い二人だったと思う。それがなぜかも考えたかった。

結局、私も、過去の一地点を再考し、自らの生の現時点での意味を確定したいという欲望に衝き動かされているのかもしれない。

面白い話を提供したいと思うし、そうなると、私の欲望とは齟齬をきたすこととなる。

あんまり最近は流行っていないみたいだが、私の学生時代はフロイトーラカン的な精神分析的読解が流行しており、その流れで、フロイトやフロイト主義の人びとの著作を熱心に読んだ。

中学時代という過去の一地点において、精神分析的な治療=言語化を施すことで、私は私を救いたいだけなのかもしれない。それでは、意図的な面白い話にならないし、私がすでに影響力のある人間ならともかくそうではないので、自分の治療の過程を物語の形で書き記していっても、それはマスターベーションだと言われてしまうだろう。

ただ、自分は、セックスとしての小説よりも、マスターベーションとしての小説の方が、好みである。し合うよりも、勝手にやる方が性にあっている、というわけだ。

最悪な開き直りのような気もするが、なんだかよくわからない文章を書くというのも、創作ノートの一機能であると思う。

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