創作ノート 1

色々な方の作品や経験に触発されて、私も創作をしようと思い、一気に初稿を書いた。

ここから少しずつ手直しをしていく。

私は創作の経験が少ないので、楽屋のことも提示することで、自分の反省もできるだろうと思って、「創作ノート」をつけることにした。

物語の全貌は考えずに、テーマと表題を決めて書き始めた。

作中にもあるように、フィリッパ・フット『人間にとって善とは何か』(筑摩書房 2014)を読んでいて、冒頭に出てくるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「助言」のエピソードが頭に残って、この「助言」の理解のために小説を書いてみようと思った。

もちろん、「ゲン」が韻を踏んでいるのも気に入ったので、このタイトルは外せないと思った次第である。

語り手の「中山」はフィクショナルな人物で、「中山」の設定はシェイクスピア『テンペスト』のプロスペローの状況を用いた。王位を追われ「難破」にあい、娘と共に孤島に暮らすも、そこにナポリ王やその息子、王位を簒奪した仇などが流れつき…という構成のうち、孤島の設定を拝借した。

政争に負けて、医局を追われ、地方の診療所を経営しながら、離れて暮らす妻と息子とはそれなりにうまくいっていて、まあまあ資産もある、という背景は正直なところ生活の理想で、名誉の欲望を捨て切ってしまえば、むしろ好ましい。これは自分自身の願望を投影したものだろう。医者ではないし、金もないが。

その語り手の「中山」は、「中学の同窓会」というどうでもいいことに首を突っ込まねばならないほど、暇をしており、娘の育児からは離れていないと、この状況に無理が出てしまうので、時間軸を第3章で調整した。第1章の時点では、「中山」の設定は決まっておらず、独身で暇を持てあましている男、日々に倦んでいる男、というイメージだけ先行していたが、物語を作る段になって、それだけ自由な語り手を出すのはちょっと反則かも、と思って、設定を狭めた。

第1章では、地の文は4行以内と決めて改行した。「呼ばれていない地元の同窓会に顔を出す」というミッションは、想像すると不穏な感じがする。この時まだ「中山」設定は顔を出していないので、犯人にでもなりうるし、傍観者にもなりうるし、探偵にもなりうると思った。

真梨先生の「6月31日の同窓会」という作品があって、そのイメージは意識した。また同窓会には弘兼憲史の「黄昏流星群」のようなおいらくの恋のような話にも分岐できるが、今回はおいらくの恋をメインのテーマに据えるつもりはなかった。「人間にとって善とは何か」をやりたいといっているのに、おいらくの恋に話が向かっていったらどうにか軌道修正しないと、と思っていた。実際に、そちらに少し足を踏み入れた。

置傘氏と日野春氏は実在のモデルがおり、特に日野春氏の「トンネル」エピソードは事実そのままである。彼は「トンネル」だけではなく、滑り止めの高校受験合否発表の時、みんなさすがに落ちることはないと思っていて「落ちても笑って帰ってこいよ」と朝に送り出したら、午後になって帰ってきて、みんなが「どうだった!?」と合格報告を期待して聞いたら「おった!おった!」と泣くのを我慢しながら笑って報告したエピソードなど、本人がうまく語れない味のあるエピソード満載の人物である。

置傘氏も、たまたま実名検索したら、本当にいかがわしい水を売っている経営者になってしまった。本当は同級生ではなく、小学校の時の2年上の先輩で、生徒会長だった。見た目は、小説の通りである。この二人は伏線として出したが、特に使い道もないまま放置された。置傘氏については、「マグノリア」のトム・クルーズの演じている人物とか、『億男』で藤原竜也が演じている人物とか、もっと具体的にすることで生きたはずだが、今回はただの飾りになってしまった。

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