本の廃棄を検討する 11
昔の高校の同人誌みたいなのを実家から持ってきて、同級生の名前を検索してみたら、すごい実績を積んでいて、結構びっくりしたのと、おじさんになっちゃったなあという感慨にとらわれた。
私が知ってる彼は弁は立たないけれども数式を書かせればずば抜けていて、しんねりしながらも、若く生き生きしていた。写真で見る彼も生き生きしているし、確かにあの頃の面影を残していはいるけれど、それでも老いが追い越していっていると思った。
もちろん自分もそうなんだけど。
井上太郎『わが友モーツァルト』(講談社現代新書 1987)
音楽はわからないことが多い。特にクラシックは演奏したことがないとわからないことも多いらしい。聴くだけでは、妙味半分ということなのか。しかし、それでも本からわかることを探したい。小林秀雄の「モオツアルト」では、モーツァルトの顔がわからなかった。そんな折、この本をリサイクルコーナーで持ち帰った。板橋図書館と書いてある。
私は、練馬、麻布十番、板橋と学生時代とキャリア前期に住む場所を変えた。板橋は、出版社をやめ、当てもなく、築地市場だけでなんとか凌いでいる時に、安い物件として住んでいたところだ。その時に板橋区立図書館で持ってきたものだろう。どこだろう赤塚だろうか。
モーツァルトについては、詳しくある必要はないから捨ててもいいかもしれない。
福田和也『平成批評 日本人はなぜ目覚めなかったのか』(角川新書 2019)
『批評空間』という雑誌を学生の頃に読んでいた。東さんと鎌田さんが対談で喧嘩をした時、大人の態度だったのは福田さんだった。福田さんの思想を全面的にヨシとするわけではないが、信用ができる大人のように感じた。節操と知性を両方持ち合わしている人は少ない。福田さんは、その数少ない大人のように感じた。
だから、正直どうでもいい内容のように感じたこの連載の書籍化も、つい購入した。だからまあ、どうでもいいと思いつつも捨てられないだろう。
大澤昇平『AI救国論』(新潮新書 2019)
ネットで不適切発言があって色々あった方ではあるが、AIについて知るために購入した。当時はロボティクスなどに興味を持っていたんだと思う。Amazonの購入履歴をみると、ロボティクス関連の本を買っている。読んではいないが。
コロナ前で、平成から令和にならんとしていて、何かが変わる予感もあった。しかし、コロナで何も変えられずにここまで来てしまったような気もする。捨てるには、まだ早い本なので捨てない。
サイモン・コンウェイ・モリス『カンブリア紀の怪物たち』(講談社現代新書 1997)
生命の誕生と進化関係は、よくわからないまでも、気になる。だから、つい買ってしまった。ただ、進化の過程で奇怪な外観を持った生物がいた、ということくらいしか、理解できていない。そんな奇怪な生物が、天下をとった世界線もあるのだろうか。
文庫でも同じような内容のそれを持っていた気がする。自分もそういうのやりたかったなあ。今頃カナダで暮らしている。先カンブリア紀の生物群を最近はエディアカラン生物群というのね。
年を取ったら読むだろうから、捨てない。
読むのか?
中島義道『哲学の道場』(ちくま新書 1998)
哲学モノ三連発ですな。中島義道ファンゆえの購入なので、ファンではなくなった今となっても青春の一ページなので、捨てられない。読んだのかと言われると心許ない。中島さんの本も騒音モノとウィーン体験モノ以外は、どれも難しいので、理解したとは言い難いけど、原典にチャレンジする気力がない今、中島さんの解釈で自分はカントを知っている、くらいの認識でいいのではないかと思った。
中島さんの本の中でも、カントを教えてくれる本と、カントの問題を自分で考えてる本があって、前者がわかりやすい。
木田元『偶然性と運命』(岩波新書 2001 第2刷)
これはもう何が書いてあるのかわからなかったな。先の哲学を解説してくれる本と、哲学してる本の区分でいったら、哲学を教えてくれる本なんだけど、やっぱわかんなかったな。
哲学の本はいずれボケ防止になるかもしれないから、取っておこうと思う。
鈴木晶『フロイト以後』(講談社現代新書 1992)
娘さんの方が今や有名かもしれないですね。劇作家の側面はあんまり知らなくて、フロイトとかの話を書いてるのは知ってて、これがあったということ。もしかしたら妻の本かもしれない。捨てられない。
これもまあ、フロイトは著作集の代表的なものを読んだくらいだけど、解釈の集大成だし、人間を類型化してみたり、推測したりする時には有効だけど、なかなか。これはそんなフロイト以後の精神分析の展開について、割と縦横に書いてある。
まあ、フロイトの本の後に教養として読んでもいいかも。
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今日は煮え切らないけどこれくらい。
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