小説が読めなくて 〜中野京子さんの本〜
下の子が引いた風邪が上の子にも飛び火して、どちらも、今日は学校を休んでいます。妻は朝から仕事、今日は遅いということなので、二人の面倒をみるために、今日は外出がかないません。いつもだって、別に外出できるのにしないこともあるのだから、どっちでも一緒でしょう、と思われる向きもあると思いますが、外出できるけどしない、のと、外出できない、ではやはり気分に差が生まれます。
子どもが風邪を引いていると、小説が読めません。なんで、そうなるかなと考えると、小説は別の次元に意識を飛ばすことに近いようで、外出と似た効果があると思うのです。なので、時間があっても小説が読めない。かといって、難しい本も読めない。でも外出もできない、となると、ぼんやりとしているくらいしかない。料理でもしながら、スタエフを聞くという選択肢もあるのですが、いつも聞かせていただいてる人々の配信は、もう朝に聞き終わってしまった。ですので、やることといったら、とくにない。それに休日なのに、軽い打ち合わせが数件、午後に入っているので、気持ちもなんだか軽くざわついて微妙です。
なので、中野京子さんの『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』(光文社新書 2014)でも、まとめようかと思います。
前史
ロマノフ家は、ロシア革命までずっとロシアの皇帝だった人々の家系です。
先祖をたどっていくと、プロイセンからロシアにやってきたドイツ貴族コブイラ家が、息子の代でコーシュキン家と改姓し、五代目にあたるロマン・ユーリエヴィチが、ロマノフ家と再改姓した、ことから始まるようです。
名前、よくわからないね。とにかく、このロマンが野心家だったということなんですかね。
で、当時のロシアはリューリク朝といって、イワン雷帝の時代だったそうです。
在位 1533〜1584 イワン雷帝
日本だと、戦国時代ですね。完全に。
武田信虎が甲斐を平定した、みたいな時代に生まれ、小牧・長久手の戦いをしている時に死んだ、みたいなイワン雷帝。わかりづらいですよね。
とにかく偉い、強い、ヤバい人だったようです。イワン雷帝。そんなイワンが結婚したのが、ロマン・ユーリエヴィチの娘、アナスターシャ。
アナスターシャの外見はもうよくわからないのですが、完全にロシア美人のイメージでやっときましょう。
イワン雷帝はそもそも、モスクワ大公国出身の父と、ジョチ・ウルスという汗国出身の母から生まれていて、勝手にオリエンタルな外見を持っているイメージであります。そもそもビザンツ王国のギリシャ・ローマ系のDNAとモンゴル系のDNAと、北方ノルマン系のDNAみたいなものが合わさって出来た超皇帝がイワン雷帝(イヴァン4世)だと思ってます。
いずれにしても、イワン雷帝とアナスターシャの仲はよく、三男三女が生まれています。
しかし、アナスターシャが急死。
イワン雷帝は他の貴族による毒殺を疑います。で、疑いをかけた貴族を次々と粛清していく。
イワン雷帝はどんどんおかしくなっていく。持病の糖尿病悪化も原因か、と中野さんは書いています。
で、跡継ぎの息子のイワンが、いたわけです。
ところが、息子イワンの妻が、ちょっとそそうをしてしまい、雷帝の逆鱗に触れ、殴打。それに対して、異議を申し立てようとした息子イワン(ややこしい)が、親父の部屋に入っていくと・・・
ここで、中野さんは、イリヤ・レーピンという画家の描いた『イワン雷帝と息子イワン』という絵画を紹介しています。
マジで?イワン雷帝、ブチ切れて、息子を殴って、アレしちゃう、みたいな…。
で、イワン雷帝、何したかっていうと、重臣の娘など新たな妃を探して、子作りに励む・・・。やってることが・・・。
ところが、そんなグラグラな状態で、53歳の時に、没してしまう、ということになります。
権力闘争(1584〜1613)
あとつぎの息子イワンを殺害し、新たに産ませた子たちも小さい、体の息子イワンの弟のフョードル(フョードル1世)が、皇帝の位を継ぐことになりました。
けれど、フョードル1世は心身脆弱でありました。なので、その親類筋が、皇帝の摂政の位を巡って争います。
抜きん出たのは二人。
フョードル1世の母アナスターシャの甥(彼女の兄か弟の息子)、フョードル・ニキーチチ・ロマノフ。
フョードル1世の妻の兄、ボリス・ゴドゥノフ。
フョードル・ニキーチチ VS ボリス・ゴドゥノフ。
軍配は、ボリス・ゴドゥノフに上がります。
完全にフョードル1世の後見役となった、ボリス・ゴドゥノフは、自身の血統のために、粛清を開始します。
まず、イワン雷帝が晩年に産ませた子どもであるドミトリーをこっそりと始末(病死と発表)。
フョードル・ニキーチチは修道院へ追放。彼の妻と息子ミハイルも修道院へ追放。
ところが、イワン雷帝の人気は高く、ドミトリーはボリス・ゴドゥノフに暗殺されたと教会が糾弾、ボリス・ゴドゥノフはその教会も罰します。
フョードル1世がなくなると、ボリス・ゴドゥノフは皇帝につき、7年間帝位でがんばります。
けれど、偽ドミトリーの蜂起(なぜかドミトリーは生きていた説で立ち上がる人がいたんですね)、農民暴動の頻発のさなかに、病死してしまいます。
ボリス・ゴドゥノフの息子、フョードル2世が即位しますが、2ヶ月で暗殺されてしまいます。
蜂起していた偽ドミトリーが即位するも、仲間に殺害。
ボリスの部下のヴァシーリーが、ヴァシーリー4世として即位するも、今度は、
フョードル1世の隠し子を自称する偽ピョートル
我こそは本当のドミトリーだとする第二偽ドミトリー
が現れます。
で、ポーランドが帝位を狙って、侵攻してきます。
貴族たちは、ヴァシーリーを退位させ、帝位は空位になります。
で、とにもかくにも、ポーランド軍を追っ払わなきゃいけないということで、団結して追っ払ったあとは、皇帝誰にするか問題を、考え始めるということになったのです。
ロマノフ朝のスタート ミハイル・ロマノフ(1613〜45)
で、選ばれたのが、ボリス・ゴドゥノフとの政争に負けて、追放されていたフョードル・ニキーチチの息子、ミハイル・ロマノフ。
ミハイルは、やりたくねー、と思ったそうです。
やりたくないんです、とも言ったそうです。
だって、余裕で暗殺されるかもしれないんですよ。
ミハイルは慎重で、とにかく固辞したんです。
でも、この決定は奇蹟の遺恨の決定だから逆らったら神に背く行為だから、と言われて、しぶしぶ皇帝になることを決めました。
これは、これで、ミハイルは賢かったかもしれませんね。
俺が俺がでは、全員がついてこない。誰もやりたくないときに、みんなから推されてやる方が、良いということをわかっていたのかもしれません。
じゃあ、やるからには、俺のバックアップしろよ、ロシア正教会をバックにしました。
ポーランドに抑留されていたフョードル・ニキーチチ(父親)が帰国して、バックアップしました。これは、ポーランドの意見をロシアの中に反映させるため、という政治的判断もあったかもしれません。なので、ミハイルになにかしたら、ポーランドが黙ってないぞ、という無言のメッセージも含まれていたかもしませんね。
で、貴族たちも、自分たちの基盤を固めるために、農奴制や身分制の強化が図られました。これ、将来にかなりの遺恨を残すことになりますが、貴族の反乱を防ぐためには、ミハイル的に最適の判断としたのでしょう。
ボリス・ゴドゥノフのゴタゴタを経て、貴族が他の貴族に抜きん出るのが無理、ということになったら、じゃあ、自分たちの旨味は確保して、皇帝位は誰か血筋のいい人へ、という形で妥協が図られたんでしょうね。
こうして、ロマノフ朝の成立、となりますが、このミハイルの妥協が、のちのちまで、ロシアの後進性と呼ばれるものにつながってしまうとは、誰が予測しえたでしょうか。
日本では、ちょうど、大阪冬の陣・夏の陣のちょい前、江戸時代が始まります。ロマノフ朝の成立と徳川幕府の完成が、似たような時期というところに、歴史の不思議なセレンディピティを感じます。
はてさて、ロマノフ朝は、今後どうなっていくのやら、と、中野京子さん『名画で読み解く ロマノフ朝12の物語』の「前史」の部分でした。
(まだ、まえがき、の部分だけかよ)