創作ノート 12
この章がうまくいかない。
というのも、この章において、ある程度の完結をみないと、次の章で娘に作品を見せたときに作品が閉じたと思わせられないからだ。
同窓会をきっかけに過去に凍結した様々な思いを解凍するという話は、まあありきたりで独りよがりな感じがした。そこで、語り手としての「私」が、表現者としての探究(「善」を描くために聞き取りをやる)と、過去に凍結した自分の問題を解凍する(2世問題が根っこにあると気づく)ことの物語を軸に、同窓会に介入し、そこで、聞き取りにおいて様々な思いを解凍させ、そこに自分に向けられた思いも受け止めることになる。
それで話は閉じるような気もするのだが、「いじめ」か「諍い」かの真相は明らかにされておらず、その真相の中心である黒岩が同窓会の提唱者だった、ということで、次が予感される。
ここまでだと、タイトルの「ウィトゲンシュタインの助言」が、イマイチ内容から浮いちゃってる。これをどうにかしないと。それは次の11章でなんとかするつもりなのだが、何とかできるのだろうか。
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ちなみに、作中の日野春は、現実には、当選していてビビった。お祝いでも送らなきゃと思う一方で、「おった!」と「トンネル」の日野春を議員にする日本社会、大丈夫か?何度も検索して、確認してしまった。作中では、落ちると言い切ってしまっていたが、それは素直にあやまりたい。ごめんなさい。
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神部さんと私が中学2年、3年とずっと隣同士だったというのは事実だが、別に恋は生じなかった。彼女は活発で、利発で、魅力的な女性だったと思う。ビーチボーイズのCDを貸し借りしたのは事実だけれども、Kokomoが流行っていたからだろう。この文章を書いていて、久しぶりに聴いてみたけれども、懐かしい。神部さんと、今会っても、話すことはあまりないかもしれないけれども、聞いてみたいことは多い。
思えば、人の話をちゃんと聞いておけばよかったな、という後悔が、この小説を書かせているのかもしれない。また、学童の会議で、同じような保護者と話をしていて、役割に踏み込むことはあっても、個人の経験の領域に踏み込むことはできないなと思っていて、それをしたらどうなるだろう、という気持ちが、これを書かせているということもある。
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児玉聡『オックスフォード哲学者奇行』が面白い。フットが言う「ウィトゲンシュタインの助言」の意味を考えるために読み始めたけれども、ゴシップだらけで面白い。ネットの文章が元になっているようだけれども、そんな文章があったんだー、と見つけられない自分に落胆。
このタイトルは、哲学的な解明の一端を小説が担っているのではなくて、もっと俗っぽい教訓としてあるだけだ、ということを次章では提示しなくてはいけない。
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ちなみに、この章も、後半部分を付け足して、志村さんの思いを解凍する部分を付け加えた。これで多少とも登場人物として意味があったかな。
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最後、どの発言が誰のものかということをチェックしないといけない。
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