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新書の整理をする 19 〜旧・本の廃棄を検討する〜

タイトルを何気なく変更しました。

今回は「アメリカ」に関して何か知りたいと思ったときに集めた新書について整理していきたいと思います。

なぜ、「アメリカ」かというと、単純に歴史的に色々な交差があったということ。私自身はアメリカの表象でよくある「おおらかでテキトーなアメリカ人」のような単純さに対して疑念を持っていたからです。

どんな人々でも、何らかの複雑さを持っているだろうと。「何らかの複雑さ」がある文化が別の文化に属する人々によって単純化されてしまうとき、「単純化する」仕方に何らかの個性があるのだろうと思っています。

例えば、ハリウッドが「日本人を眼鏡で出っ歯でスーツを着ている人」と単純化するときにこそ、そこにアメリカ文化の特質が映し出されていると思っています。

だから、どちらかというと、新書を読んで得たいことは、アメリカの複雑さや多様性の実態です。

坂下昇『アメリカン・スピリット』(講談社現代新書 1981)

私のアメリカ表象受容経験のその一は、『キン肉マン』の中に出てくるテリーマンでした。正義漢で、カウボーイで、それにしては意外に地味な活躍しかしないで、という位置付けであり、ブロッケンJr.やロビンマスク、ウォーズマン、ラーメンマン、ウルフマンのような明らかに特定の文化の表象を背負った(デフォルメはあるにせよ)キャラクターに比べ、地味だなあと思ったものです。

でも、その中で、テキサス感というか西部開拓的なものが、アメリカの精神を示すものなのかなと思って、翻訳者でありアメリカ文学者であるところの坂下昇氏の『アメリカン・スピリット』に手が伸びたのでした。

いつ買ったのかは定かではありませんが、この頃の講談社現代新書は、表紙にあらすじがサクッと書いてある装丁で、中身を推測するのにすごくわかりやすいなと思いました。

ここで言われている「善意の強制」ですが、一方でhelpfulなる感覚は、私の経験では困ってると助けてくれようとする経験にあり、悪いものではなかったように思います。一方である種の差別意識も明確で、その表裏は何に由来するのかなあと思ったりしました。

「アメリカ」ボックスに保管。

金関寿夫『アメリカは語る 第一線の芸術家たち』(講談社現代新書 1983)

ラフォーレミュージアムが80年代にアメリカン・ポップアート関係を次々に呼んでいた。セゾンもまたそういう傾向があった。50年代から80年代にかけて燃え上がるアメリカンポップアートの力は奈辺にあるのか、という意識でたぶん購入したものですね。

リキテンスタインとか何となく人気ですが、こうした、アメリカ的表現とも言える作品の中に抽象とも構成ともいえないシリアスさを感じて、その本質をきっと探ろうとしたんだと思います。買う時はそこまで考えてなかったと思いますが、読んで、ジャスパー・ジョーンズとかデヴィッド・ホックニーとかがやりたいことが「わかる」。そんな経験をした本でした。

「アメリカ」ボックスに保管。

ここを書いて、バスを降りて、歩いているときにつまづいて、転びました。

受け身をとるわけですけど、スラックスの膝が破れました。

悲しいですが、つんつるてんになってきているので、捨てます。

林敏彦『大恐慌のアメリカ』(岩波新書 1988 第2刷)

理論経済学の立場から、わかりやすくアメリカの恐慌史を描いてくれている良い本。この方もスタンフォードPh.D。

スタンフォードにこだわっているのは、個人的に行ってみたかったなあと思っているので、行けた人がうらやましいと思う反面、お金がものすごくかかるので、その教育法を披露してお金を稼いでいるのは、正直どうかと思うことと。

時代や環境や経済が許さなかった部分というのに、悔しさがあるかなあ。まあ能力が絶対的に足りないと思うんですけどね。なので、割と、こないだの早逝した高根さんもそうですけど、スタンフォード、おっ、と思ってしまうわけです。

良い本ですよ。保管。

柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書 2000)

普通の叙述的な文学史とはちがって、柴田先生の思考をたどる形で、ノックを受け続けるというレッスン。工夫が凝らされています。

基本、ナボコフなら若島正、オースターなら柴田元幸なんていうふうに、翻訳の守備範囲的なものがなんとなしにあるもので、ヘンリー・ジェイムズだと我々世代は行方さんだったのですが、そんなジェイムズの『ねじの回転』なんかが柴田訳されていて、ちょっとレアな雰囲気を持った本です。

ただ、この「幽霊の正体」では、ねじの回転ではなく、同じような趣向をもった「愛しい街角」で、そちらに話がスライドしていきます。ジェイムズの人生、キャリア、作風、作品、社会や時代、といった定番の語り方ではなくて、作品のモチーフを繋げて行って、視覚的に系譜関係を呈示しようとしているかのようです。

いずれにしても、中身をみたら再読したくなったので本棚に戻す。

加藤秀俊『アメリカ人』(講談社現代新書 1980 第18刷)

すごいですね、1980年の段階で18刷って、どれくらい売れたのでしょう。ちなみに加藤秀俊氏もスタンフォードで教鞭をとった経験がありまして、なんなんでしょうね、私のこの粘着は。外部研究員みたいな感じだったんですかね。

転んだ時に突いた手のひらの一部が青タンになってきて、PCでキーボードを打つと痛いです。膝も痛いし、もう年ですね。困ったものです。そんなことを思いながら、加藤さんの本を読むのですが、なんというか独特の癖があって、読みにくいですね。鶴見俊輔とか梅棹忠雄とか、その辺の世代の方々の文章は正直、ひらがなで開くところとカタカナで強調するところとかのリズムが微妙に違っていて、文章は平易な風に書かれているのに読みにくい。

なんででしょうね。加藤秀俊ボックスの中で保管します。

進藤榮一『アメリカ 黄昏の帝国』(岩波新書 2000 第8刷)

タイトルだけみて、ああこれ藤原帰一だっけと思った私はまだ修業が足りないようです。どんな文脈で買ったのか。とにかく、表紙にアメリカと書いてあって、100円均一コーナーにあったら、とにかく買ってた時期のものじゃないかなあ。

まだ、9.11が起こる前ですね。しかも初版が出たのが1994年なので、80年代のアメリカ低迷期の総括的な意味合いの強い本ですが、意外に小見出しだけ見ると、現在のアメリカにも普通に通じるような普遍的な問題が語られています。「広がる格差」とか「リベラルの矛盾」とか。

昔の時事的な本なので、データとかは、もう当時のものでアクチュアルな読み方はできないでしょうけれども、ちょっと読み直してみたい本であります。本棚に戻す。

巽孝之『アメリカ文学史のキーワード』(講談社現代新書 2000)

柴田先生とは趣の違うアメリカ文学史講義。こちらも、スピード感ある文体で繰り出される博学はやっぱり追随を許さない感じ。そもそも「たつみ」先生のあの文字は、変換で出てこないんですよね。どうしても、「巳」の字で出そうとするとへんがついたものしか出てこない。

2000年ごろって、結構「アメリカ」が注目されてたんですかね。折り返しの文章を見ていると、持っているもの持っていないもの含め色々ある。いずれにしても、「アメリカ」については、もう少し掘り下げたいところ。

保管で。

どうも転んだせいで、今日は体が痛いです。歳をとって転ぶのは本当に良くない。皆さんもお気をつけて。

あと、なんとか満月のせいなのか、頭も重い。そんなことを気にする男じゃなかったのになあ。

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