ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』10 〜第二編「四 信仰のうすい貴婦人」

いいや、あなたがそれを嘆いていることだけで十分なのです。ご自分にできることをなさい、そうすれば報われるのです。あなたはもう、ずいぶん多くのことをやり遂げていますよ、なぜってそれほど深く真剣に自覚することができたのですからね!

この人、なんでこんなにフォーカスされているんだろうと思ったら、ホフラコーワ夫人は娘のリーズ(リザヴェータ)と一緒になって、アリョーシャを「翻弄」する、ということらしい。亀山郁夫さんが書いてた。でも、亀山さん、後でアリョーシャに余計なことを言って戸惑わせる、ラキーチンのこととか紹介もないんだよね。ラキーチン、結構やな奴で、すごい嫌いなんだけど。

ここの節、アリョーシャのターンだといっていいんだけど、いつも思うのはアリョーシャのターンが一番わかりにくい、そして、そのせいかあんま面白くない、ということなんだよね。

今すでに第三編の「好色な男たち」に入ってるんだけど、そこのスメルジャコフ・ターンはすごい面白い。行動はアレだけど、それゆえに、良くも悪くもわかりやすい。それに比べてアリョーシャのターンは、あいつが受け流しの姿勢を取ってるせいもあって、どうも一方的な会話が多く、それがイマイチ深まっていかない気がするんだよね。でも、主人公で一代記なんだろ?

「翻弄」ってなんのことかな、と思えば、要するに好き好きオーラを出しまくって、異性に弱なアリョーシャをドギマギさせるっていう感じなのかしらん。なんとなく面倒な母娘だな、と思わんでもない。

この節、だから、全然印象に残らなかったんだよね。

ただ、自分は心理主義的な小説技法が好きで、ヘンリー・ジェイムズとか、語り手が登場人物の心理を腑分けするように繊細に分析していく感じの小説が好きだったんだけど、ドストエフスキーの場合は、登場人物に多くを語らせ、その語りも直線的ではなくジグザグして、言い間違えや脱線もあって、それらは無駄になってるのじゃなくて、それらの語りの飛躍や脱線、迂回や冗長も含めて、キャラのパーソナリティを考えさせるようにできている気がした。

最初、キャラの外見的な特徴や振る舞いについての示唆が少ないのは、英国文学だと上流・中流階級の服装や行為のパターンで人物の書き分けをすることが多いのに対して、ロシアの農村や地方都市だと、そういうハビトゥスを抽出しても、読者にわかるわかる!とならないからしてないのかなと思ったんだけど、そういうことではなく、キャラの語りを前景化するということで書き分けているんだなと思った次第。

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