Untitled #4 〜新潮の横光、岩波の横光〜
Untiteledのラインは、多くの人が関心を持たないような内容を書いている。なんなら、自分も以前なら関心を持つこともなかった事柄を、備忘録的に書くことを目的としている。
新潮文庫が唯一残している横光利一の短編集である『機械・春は馬車に乗って』は、大きな本屋でしか見たことはないが、岩波が新版では落としてしまった「時間」という作品が入っているのみならず、長編に取り組んでいた時期の短編も含まれている。そういう意味で、横光利一の仕事の全体に配慮して編まれた短編集だと言える。
これもラインナップを比較してみよう。
「機械」までが、新潮は早い。いわゆる新心理主義への関心から、純粋小説論へ、そしてその実践としての長編執筆、と展開していく横光の文業の後半の短編に光が当たった短編集は、新潮の特徴である。
篠田一士の解説が、面白い点を指摘している。
要するに、長編に焦点が当たりがちな横光の作品歴後期の中でも、短編を描き続けており、それは決して前期に引けをとらないということが言いたいのである。
確かに、長期熟成させることで価値を高めていく赤ワインも、それだけ作っていると、保管しているうちに破産してしまうから、すぐに換金可能なワインのラインナップを用意して、それである程度利益を取っていきながら、長期熟成のワインをそれに乗せてリリースしていく、という手法はよく見られるものだ。
作家もまた、短編や、連載である程度の収入を確保しながら、その上で書き下ろしなり、リライトなりで芸術的完成を追求していく。そういう現実的判断としての2正面作戦が必要になっていたということでもある。
そういう背景の中で横光は長編に取り組み、しかも、書き直しを多くした。そのため色々な版が、横光の長編にはあるようだ。
長編書き下ろしで、経費と生活費分を回収できるのは、春樹とか大江とか京極とか、そのくらいにならないと無理ということだろう。箔がついてしまえば、日々の収入は講演活動に軸足をおいて、じっくりと書きたいものを書いていくというスタンスに入れるというわけである。
昔の作家は鎌倉とかに一軒家を持てた。まあ、それも有名文士であることはあるのだけれど、私もそういう作家の、投資額の少なさに対して、リターンが大きいありように憧れていたのだけれども、どの業界でもそうだが、そういう人は一握りということなんだろう。サラリーマンのように定時書いて、安定的にアウトプットしていくという姿勢じゃないと、職業的作家にはなれないのだろう。
どこへ行っても、何をしても、どうにもならんというわけだなあ。