創作ノート 5

第4章は、大幅に書き足した。

いつも思うけれども、会話文は難しい。それぞれの話し手の個性が出ないと、おんなじ人が別の役割で話しているように見えてしまうからだ。

だからつい私は《この発言は誰々ですよ》という記号を付けてしまう。それが煩わしいのはわかるが、癖というか、なんというか。

弘海、鬼頭、小室、榊原、志村、照本の6人の位置づけを変えた。最初は誰でもよくて、思い出せる同級生をかたっぱしから挙げて行って、残ったのはこの6人だった。現実に彼ら彼女らは付き合っていたわけではなかったが、惹かれあっていた。それは間違いない。

恋愛感情というものは、分かっていると思い込んでいた時期もあったが、やっぱりわかっていないと思った。特に思春期の恋愛感情とは何だったのか、自分でもよくわからない。明確なゴールがなく、感情だけを持て余していた。

「50前にもなって、小学生や中学生のときの恋愛感情を書くなんてお・セ・ン・チ」と言われそうだが、大人になってからの恋愛感情は目的が明瞭なので、やることもおのずから決まって来る。将棋みたいなもので、勝ったり負けたり。そういうことを言っていると、だから男は、と言われてしまいそうだが、目的が不明瞭なまま感情が沸き立つ恋心は、描けば描くほどその喪失が強調される。

思春期のときは、まだ「喪失」もしてないのに、仮想の「喪失」感を空想して、甘美な余韻に浸っていた気がする。これも男でかつロマンティックなものだけのことなのだろうか。しかし、実際の「喪失」はもっと残酷だった。残酷な経験ののち喪失せざる時代を描くとはどういうことなのか、書きながら考えてみたかった。幼年時代を描くとは、「喪失」を確認しつつ、「喪失」を生きなおす経験なんじゃないかと思う。

照本については、今も某SNSで生息が確認できるが、おそらくはここまで成熟しているわけではない。失礼な言い方だが。照本の経験は、野球のシーンのときに出て来たカエル君の人生を接ぎ木した。現実の照本は、おそらくは変わらず粗野なままだろう。

カエル君は徹底して男気の人だったので、浮ついた話がない。なので、ここに出すことができなかった。カエル君の方が、私自身は仲が良かった。彼が大学受験を諦めて、機械でつくる寿司屋を頑張る、と日本を出るところまで、友人としてつきあっていた。

彼ら彼女らとの会話を聴きながら、「私」は自身の問題を発見する。衒いや韜晦で自身を守ることで、人と話が率直にできないという弱点のことだ。ウィトゲンシュタインがフィリッパ・フットの前で見せた助言が、そういう日常的な意味合いで投げかけられたものではないとも思うが、言語ゲームの記述に腐心した後期ウィトゲンシュタインの生き方は、人の人生を自身が持つ鋳型にはめ込むのではなく、ただ聞き取ろうとする意志が大事というメッセージとして私は受け取った。

それで初めて、会話が持続する、理解が持続する。これもまた純な見方に過ぎないといわれてしまうかもしれないが、パフォーマンスとしての露悪の方が、中2っぽい気もする。だから要するにかっこつけないで、書きたいものを書いてみろってことなんだと思ったわけ。

鬼頭×志村の掛け合い、弘海×小室の疚しさ、照本×榊原の切なさという三つの変わらぬ関係性は、話の本筋に関わってこないけれども、人は案外思春期に重要な何かを経験したまま、それを置き忘れて大人になってしまう、というテーマが暗示出来て、自分ではまあまあ満足できた。

会話の中の下ネタのようなものは、書く必要はないかもしれないと思ったが、割とああいうのは、飲み会などで女同士が話しているのを聞いたりするので、そんなに特殊なことではないと思う。

あと、それぞれのキャラクターの外見的な特徴も、会話主体の指示表現を付け加えるなかで、書き込んでみた。外見的な描写をあまり入れすぎたりステレオタイプみたいなものにしてしまうと批判にさらされるので、ほどほどに。

例の第1章の作業員のニヤニヤと、榊原さんのニタニタは、イメージとしてリンクするように反復してみた。横光利一に「笑はれた児」という短編があって、中空にニヤニヤした顔がイメージされ、という話を下敷きにした。

語り手の「私」の「探し物」という筋が、1~4までの動きの少ない物語を貫いているが、5、6について、単純に彼らのライフストーリーをまとめただけでは、やっぱりあまりにも足し算すぎる。

「私」が抹消しようと努めているものが、あのライフストーリーを書き出している中に浮かび上がってくるという形に書き直す必要があると思った。

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