乱歩についてのうつろなメモ
内田隆三『乱歩と正史』は、作家論、作品論、社会表象論の三つが組み合わさった書籍で、総合的なものだった。
ここまで乱歩関連の文献を読んで来て気が付いたことがある。
乱歩は、1927年以降、自分の小説家としての限界にゆきあたり、何度も自己嫌悪や自信喪失に陥った。けれども、何かを書かねば生活がたちゆかないということもあって、冒険活劇ものや、子ども向けの作品群を、「自信喪失」以降もたくさん生み出した。
乱歩を作家として位置付ける目線は、いわゆる「前期乱歩」期の作品に、注がれるのが普通で、中期乱歩については、都市論的な、あるいは、社会表象論的な目線がないと、純文学としても、ミステリとしても、論じきれないように、見えた。乱歩自身の発言もあって、どうしても、このような語り方になってしまうようだ。
私も、中期~後期のかけての作品群を、それ以外の眼で見ることができるかといえば、その自信はない。やっぱり、乱歩の自己評価に引きずられてしまうし、作品としてのものたりなさは残る。一方で、収集癖の昂じた文芸史家としての業績は、後期においても見るべきものがあった。
ミステリ論としては、乱歩はおおよそ変格ミステリジャンルに組み入れられる。それがかえって純文学作家乱歩の顔を浮かび上がらせる結果となっている。
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ただ、私は、子供向けリライトの乱歩が好きだったし、同じような読書体験を持つ人とも多く出会っている。だから、一概に、実験的で先鋭的で歴史的な作品のみで文学史が構成されたら、それはそれでつまらなかろう、読書の裾野も広がっていかないだろうと思っている。
私のように、カルチャーが家になかった人でも図書館で乱歩のリライトを借りて楽しみ、多少なりとも読書に親しむことができたのなら、乱歩の子ども向けリライト作品にも役割と意味があったし、それら作品が生み出される意味はあるんじゃないかとも思う。
むずかしくて堅い作品も、さらさらっと読み飛ばせる作品も、多くの人から敬遠されそうな作品も、実験的で難解な作品も、自己啓発的内容の作品も、好みはあれど、すべての本の存在を肯定する道はないかとアレコレ考えてきたが、無理だった。
無理、というか、それを多くの人に共有してもらうのは、無理だと思った。やはり好きな作家、作品、ジャンルがあればそれ以外は、眼中にないか、嫌いかのどちらかだし、すべてを肯定するというのは、すべてを肯定しない、ということと同じだと思った。
好きな作品 残りは眼中にない
好きな作品 嫌いな作品 残りは眼中にない
全部好きな作品 何も言っていないと同じ すべて眼中にない
好きがあるから、嫌いがあるし、無視したりや嫌いを言いたくなければ、好きを言い続けるだけだけれども、それは好き以外は無視すると同じ態度だ。
まあ、どうでもいいか。
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都市論から乱歩を見る、という視点だけれども、ミステリジャンルは、都市化によって生まれたということなので、適合的らしい。
また、近代化とミステリジャンルも、適合的らしい。
都市には人が集まり、以前のような農村的な顔の見える関係、みんなが知り合いの関係から、匿名的で、となりの人がなにをしているかもわからない人間関係が優位になる。そのため、人の外見が、判断にあたっての重要な指標となる。
事件は、動機も方法も犯人もわからない状態で、行われる。都市には、そのきっかけがたくさんある。そのきっかけは都市だからうまれたということもできる。
また、事件を解くものは、徹頭徹尾合理的、科学的に考える。幽霊のしわざと言ってしまえば、終わりのものも、必ず人間が何らかの形で犯行を行ったと仮定して、検証していく。このプロセスは、科学的態度であり、近代人の態度である。
近代化によって生まれた都市に適合的なジャンルがミステリというわけである。
そういう意味で、近代化の先駆けをなした英国でミステリが発達していった、ということも、なるほどと思われた。
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今日はただのメモ。
空虚。
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