「三十五年越し エピローグ13」恋と近代の関係について/ちょっとしゃっちこばってますが、、、
人はなぜ恋をするのだろう
という言葉は、思う人に入れられず失意にある若者がよく口にする言葉ではあろうかと思います。しかし、年齢を重ねた人間にとっても特に私のような不埒な人間には重要な問いなのだろうと思っています。
もちろん、「三十五年越し」本編で述べてきましたように、年齢に関わらぬ「尽きせぬ生への情熱」によるものとの答えはある程度真を突いているのではないか、と思っています。
もう一つの答えがあるとすれば、これも本編とエピローグで露わにではないにしても述べてきたことですが、「近代」との関わりです。
近代については、
上記マガジン:「私の定年講演」の中で、詳細に述べさせていただいています。
それは「個の自立」あるいは「個の確立」であり、建前として世俗上、如何にして「個」として、世に自分の人生を意義あるものにするか、ということです。
西洋的には、このことをGOD=創造主の前において、全ての人間に問うわけですから、よく考えてみればものすごいプレッシャーを一人一人に与えているものだと思います。
「個の確立」と「女性」
特に最近では、この「個の確立」の強迫観念をまともに受けているのが日本女性なのではないかと思っています。
私の妻などは、既に59歳で世代的なものもありますが、能天気にと言っては怒られると思いますが、結婚して子供産めば家庭に入ってそこで生きていくというのを基本的な考え方としています。
そういう世代の女性は、家族という団体戦を戦うという意識の中で、「個の確立」という強迫観念をもろに浴びることは比較的少なかったのかもしれません。
稿を別にして詳しく述べたいと思いますが、結婚とそこで築かれる家族という団体戦は、男にとっても近代という強迫観念を適度なものにし、その戦いをより建設的なものにするもの、と思います。
しかし、そういう風潮を真っ向から否定する風や社会環境が今を形成しています。社会或いはマスメディアはこぞって、女性に金銭的自立を求め、そうでなければ人間にあらず、といったふうな感覚さえ若い女性は持つに至っているのではないでしょうか。
そういう中で生き抜く若き女性の心理を、我々は現代のラブコメディという仮想の中でよく見ています。
その代表的なものに、新垣結衣主演の2016年TBSドラマ「逃げるが恥だが役に立つ」があるのだと思います。
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私は本当にこのドラマが好きで「逃げるが恥だが役に立つ」をよく観ているのですが、ガッキーの愛らしさとともにそのストーリと演出の巧みさにラブコメディの本質、人間の本質が実によく現れれているなあ、と感心しています。
このドラマの中での「みくり」ことガッキーの立場は、見事に「個の確立」の強迫観念に晒されている女性を表わしていると思います。
「個の確立」の強迫感 と 「恋」
近年における女性に対する「近代」が晒す強迫観念について、述べましたが、これは男性サイドに立っても全く同じことだと思います。
高度に近代化した社会で一生を職業人として生き抜くことの大変さというものは、以前に比べ高まりこそすれ決して弱まってはいません。さりとて以前にしても非常に大きなものがありました。
それは、私にとっても特に若い時代には、そうでありました。このことは既にこの「三十五年越し」の本編の中でも記してきたことです。
この強迫観念の中で、若者はある意味孤独に耐え、それゆえにこそ強く惹かれる異性に焦がれる「恋」という状態がうまれるのではないかと思います。
「三十五年越し」ではそういうことも書いてきたということになります。
現実に私の場合には、恐らくそういうことであったのかな、と思います。強く「個の自立」、「個の確立」を望むがゆえに、孤独であり、自分の中にない美徳が感じられる美しい異性を求めるということなのでしょう。
もちろん、きれいごとだけでなく本能的な欲求、あるいは生への尽きせぬ情熱というものが不可分のものとしてあることは間違いありません。
私が、「逃げ恥」を好いているのもそういう近代あるいは現代の課題に応える形で、「恋」を上質に本質的に描いているせいなのだと思います。
そういう意味で私が「寅さん」を好いているのも同じ理由からです。
誰にもある「恋」と「近代」の関わり
以上縷々述べてきましたが、誰しも自分の「恋」と「近代」には関わりがあるのだろうということです。だからこそ、その「恋」は甘く切なく、痛切なのではないでしょうか?
そして、私の場合は、ちょうど20代の最も活き活きと生命と感性が躍動していたとき、美智子さんへの5年に及ぶ「恋」があったということです。
不器用ゆえに実ることの無かった「恋」が、豊饒な形で近代との相克の時間を齎してくれたのかもしれません。
しかし、一方で美智子さんにとっても、一瞬だったのかもしれませんが私への「恋」があったとすれば、そこに彼女の「近代」もきっとあったに違いないという想像をしても許されるのではないか、と思っています。
そのことを忍んで本稿を終わりにしたいと思います。