「ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前」野心、虚栄心の問題
いま、「ローマ人の物語Ⅳ ユリウス・カエサル ルビコン以前」をまさに読んでいるのですが、カエサルの人柄が少しづつ胸の奥に伝わって来てその世界に心が勇躍してきつつあるところです。
中盤に差し掛かって、之は左成り!と手を打ったところがありますので少し記しておきたいと思います。
野心と虚栄心
塩野七生さんは、カエサルを評するにあたり、スッラ、ポンペイウス、キケロ、ブルータスらと比較して、野心と虚栄心が共に大きく野心のそれが一段と大きいのがカエサルだと言っています。
一方、スッラは野心は大きく、虚栄心小さい。ポンペイウスは野心より虚栄心が大きい、キケロは同じく野心より虚栄心が大きい、ブルータスはともに小さいが虚栄心の方が若干大きい。
そういう目で見ると、会社生活でよく見かける人も、この基準で分類できるな、と思わず手を打ったわけです。
総じて、虚栄心が大きい人が悪目立ちし、上の方に出世していった人にもそういう人が結構います。
醜いものです。
また、先に記載した、研究室の同窓会でも、かつてそうだったな、今も変わらないな、と思わせられた人もいました。
野心、虚栄心と羞恥心
さて、自分自身はどうだったかな、というとそれは他人様に評価してもらわなければわからないことですが、少なくとも私の場合は、この野心は大きいつもりです。まあ、虚栄心も大きいのでしょう。
ただ、わたしは日本人ですので、この野心と虚栄心に加えて、人一倍羞恥心が大きいです。この羞恥心によって虚栄心を制御してきたという面が濃厚にあります。
本来、日本人の場合、この羞恥心によって虚栄心をコントロールしてきた民族ではないのかということを改めて思いました。
これは良い面と悪い面があるのかもしれませんが、日本人の特徴である情緒性とも濃厚に繋がっているためにこれからもやはり重要な人間性視点だと思います。
そういう意味で、皆さんも周りにいる人たち、あるいは醜い人、美しい人、そして自分自身を見つめ直すという点で、この野心、虚栄心と羞恥心を改めて捉え直してみるのも一興かと思います。
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