Short story_あの秋
資生堂 ばら園
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香りから想起される物語 香りを想起させる物語
あなたはこのストーリーからどんな**香りを感じますか
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秋になっても咲き続けている。
うちの庭の柵に延々と広がり蔦を延ばしているティ―ローズにフレンチフリル。たった一つの株から伸びる棘のある蔦。
虫や棘に気を付けて、そっと花に顔を近づける。
湿っていて深くて、ずっと嗅いでいるうちに気が遠のいて別世界に連れて行かれそうになる。
そんな魔力を持つ薔薇の芳香とは似ても似つかなかった、けれどもそれは、13歳の少女にさえも、確かに薔薇のイメージそのもの、だった。
それはストレートな「薔薇」を意味する記号。
トップもミドルもラストも無く延々と記号としての薔薇が匂う。
だから、常にその人から香っていたその香りは、次第に薔薇の概念を離れていって、いつしかその人の記号となった。
「やばい、先生もう来てるよ。」
それは廊下に漂っている残り香で知れた。
遅れて教室に入る気まずさ。教壇に立つ雨宮右子。
「はい、遅刻ですよ。」
週に一度のバレエのレッスン。
日曜日は朝から電車に乗って、田んぼと住宅のモザイクでできた新興住宅街から、ちょっと離れた街に出る日。
昼過ぎにレッスンが終われば、私は街の中でひととき自由になる。
人が流れる地下街の中を抜けて向かったソニープラザ
外国製の紙は書きにくいのに、そのことすらおしゃれに感じるメモパッド
薄いブルーのレターセット
ルノワールの絵が押されたフルーツドロップの缶
プラスチックのヘアクリップ
マリークワントのカラフルなマニキュア
いつ来ても夢の国のようだ。
けれど、限られたお財布の中身で何を手に入れるかは大問題になる。
今日は本屋で好きな作家の新刊が出たから、それだけを買うと決めて来た。
なのに、道のりにあるCDショップや雑貨屋を覗かずにはいられない。
パン屋の前を通る。
昼御飯用に持って行ったおむすびをレッスンが終わって2つも食べたのに
あの、あんぱんが食べたくなる。
ここのお店のあんぱんはパン生地がとても薄く、ほとんど、球体のあんこの塊のような、爆弾あんぱん。
我慢、我慢。
太っちゃうのは嫌だし、それにもう、予定外に出会ってしまったモノクロームセットのCDのせいでお財布の中に千円札は一枚も無い。
ああ、せめて焼きたてパンの匂いをいっぱい吸い込んで、と息を吸い込んだ時、
パンどころではない、その香りに驚く。
あ、これは。
こんなところに?
帽子を顔が隠れるように引き下げる。
誰にであれ、私がパンの匂いを吸い込んでいたなんてことを知られてはならない気がして、一瞬周りを気にした。
同じ香りを付けている人がいるのかな?
それとも、先生が近くにいた?
レトロな街感の暖色照明で薄暗い地下街では、通り過ぎていく人の顔はあまり見えない。
けれどこの鼻は確かに香りをキャッチしていた。
いた!
雨宮だ。
薄暗くても見間違うはずもない、彼女のシルエット。
男の人と腕を組んでいるではないか。
思わずいけないものを見た気がして心臓が高鳴った。
後ろ姿だったけれどウェーブがかかった髪形や小柄な背丈から現代文教師の雨宮右子であるのは間違いない。
私は今、私服だし、スパッツとショートパンツとGジャンに帽子。
友達だったって、簡単には私とは気付かないはず。
鼓動が自分の耳に届くようだったが、それでも芽生えてしまった好奇心に抗えない。
雨宮と男性。
その後を、ついていけるところまで、ついて行ってみよう。
隣の男の人は誰だろう。腕を組んで歩く関係なんてぜったい彼氏だよね。
ちょっとだけ、ちょっとだけ彼氏を正面から見たいだけ。
男の人は帽子をかぶっていて、後ろ姿では全然どんな感じか分からない。
ひとめ正面から見たらもう追わないから。
まるで探偵になった気分で10メートルくらい離れて、ふたりの後を追った。
見失わないように、というよりも、微かに漂う薔薇の香りを辿って。
地下街を歩きながら鼻を澄ませていると、いろんな香りがする。
制汗剤のような、整髪料のような、柔軟剤か、雑巾か、食べ物か、
街には色んな香りが撒き散らされている。
地下街から階段を上ると、急な地上の目が光に耐えられず、一瞬目を閉じてしまった。
すると、あれ、どこ?
二人を見失った。
鼻をクンクンさせる。
排気ガスの混じった秋の乾いた空気の匂い。
薔薇の匂いは、なくなっていた。
またすぐに月曜日の朝が来て、制服を着て重い鞄を手にしていても、全開になった窓から秋の空の高さが見える今日は少し気分がいい。
倫理政治経済の授業はラジオ程度に聞き流せる。
ノートの端に今日子に渡すメモ手紙を書いていた。
けれど、昨日の探偵ごっこの事は、何となく書けずにいた。
正面から雨宮先生カップルの顔まで確かめたわけではないし。
チャイムが鳴る。
級長の声で皆が椅子を引きずる音を立てておざなりに立ち上がり挨拶をする。
あ、次、現代文の授業。
ああ、薔薇の匂いが入って来た。
ひらひらしたスカート。
ふわふわしたウェーブ。
全てから薔薇の香りが発せられている。
丸い顔で小柄な身体。
後ろ姿でも間違えようはない。
現代文の授業より雨宮のあの後の話が聞きたい。
「じゃあ、この段落を読んでもらいます。そして指示語はどこの部分かを答えて下さい。えーと、誰にしようかな。」
いつも通り、名簿から生徒を指名するかと思いきや、
凝視していた私と目が合ってしまった。
真っ直ぐ見つめすぎて、当てられてしまったではないか。
慌てて立ち上がり、教科書に目をやるが、何処を読めばいいのか分からない。
隣の北川君に目で助けを求めるが、一瞬で目を反らされてしまった。
彼、寝てたな。
「はい、ちゃんと授業聞いておいてね。38ページの段落からよ。」
ああ、雨宮先生と一緒にいた男の人は誰だったのだろう。どんな彼氏だったのだろう。気になる。
自分の家の部屋で買ったばかりのモノクロームセットのCDを聞いていた。
洋楽なんて全然わからない。でも好きな日本人デュオが良く聞く音楽に挙げていたから、聞いておかなければ。
限られた情報しかない世界にいて、好きなアーティストと関係ありそうなことは何でも知りたかった。
先生だって29歳の独身女性だ。
そりゃ彼氏だっているだろう。
相手の人も先生かな。
日曜日にデートなんて、何処に行くのだろう。
映画かな。カフェかな。
その次の週のバレエのレッスン帰り、同じ時間くらいにあのパン屋の前に立ってみた。
なんとなく、期待をしていた。
もう一度同じシチュエーションにならないかと。
先週、雨宮先生カップルを追跡していて見失ってしまったことへのリベンジ。
今度こそ男性をしっかりと見てみたい。
けれども、デートはバレエやなにかのレッスンと違うんだから、毎週同じ時間に同じところを歩いているなんて、そんなことはないか。
せっかく、探偵気取りで少々変装気味のいでたちで来たのに、少しがっかりする。
爆弾あんぱんをひとつ買って、帰りの電車に乗った。
いつか、この街を男の人とデートするなんて、そんな日が私にも来るのだろうか。
そんな年齢になることは自明なのに、自分が大人になることなんて予想すらできなかった。
いつまでも、爆弾あんぱんを食べて、制服を着ては脱いで、バレエに行って。
永遠にそんな毎日が続く気がしていた。
ふと、母親のドレッサーを見に行く。
香水がいくつか並んでいるのを知っているから。
母親が着けている香水は、雨宮先生のとは違って「薔薇」とか「何々の香り」とは言えないような、なんだか重たくて濃くて複雑な香りの物ばかり。
一度着けると、着けたて直後から、時間とともにどんどん香りが変化していく。
こんな香りだったら、街でキャッチして追跡するのは無理だろうな、と思った。
「美奈子、またおかあさんのドレッサー触ったでしょう。勝手に触らないで。」
夕食前に母に注意された。
すべて元通りに戻したのに、何故分かったのだろう。
「分かるわよ。あなた、香水勝手に使ったでしょう。やめてよ、香水って安くないのよ。中学生が着けるような香りじゃないんだから。」
「ねえ、なんでわかったの?」
「あなた、自分から香りがするの、分からないの?すぐ分かるわよ。」
香りは、周囲に漏れていることを纏っている本人だけが忘れている。
雨宮先生の香水も高い香水なのかな。
私は、どんな香りを纏うのがいいのだろう。
ソニープラザのショーケースを覗き込んで様々な香水瓶を眺めていた。
香水ビギナーにおすすめ、とあるのは水色のプチサンボン。石鹸の香り、らしいが私の知るどの石鹸の香りとも違っていた。
ケルンの水、男の人の香りのイメージだった。
この幼児体形の子供の顔をした私に合いそうな香水は見つからない。
というよりも、私自身が好きな香り、というものが見つからない。
透明なガラスに花や植物の絵が描かれたローラアッシュレイの香水のボトルには惹かれた。
けれど、その香水の香りは化粧が濃い叔母を思い出してしまった。
結局色んな香りを試して着けてみて、めちゃくちゃに混ざった香りに酔いながら帰路、地下鉄の駅に向かった。
家の近くの駅の前にある花屋を覗いてみる。
小さな山小屋のようなお店の雰囲気にはいつも引き込まれる。
外壁を覆う蔦の葉が美しく色付いている。
ユーカリのスワッグが天井から下がっている店内には、花以外にも、外国のガーデニンググッズなども置いてあって、見ているだけで楽しい。
バケツに入ったカーネーションや薔薇、ダリアやブルースター、菊に端から鼻を近づける。
そう、私が好きな香りはこれ。こういう香り。
少し苦みのある、少し臭いような、でも温かい花の香り。
こんな香水は、無いのかな。
花屋の敷地の一角に植えられていた銀木犀が咲いている。ぞっとするほどエレガントな香りを漂わせている。棘の葉に護られて小さな白い花がぽつぽつとついている。
暮れていく空に白く細い月が昇っていた。
授業の休憩時間、見えない後ろから手が伸びてきた。
「だあれだ。」
「燈子」
即答して、突然に私の目を覆った冷たくて長い指の手をそっと握って外す。
燈子は私と制服を着ているはずなのに、なんだか大人の女に見える。
背が高く、ショートカットが似合っている。
「何で分かった?」
大人びた雰囲気を持っているのに、やることが子供っぽい。
幼馴染で隣のクラスから時々遊びに来る。
「すぐ分かるよ。」
「ねえ、英語のリーダー貸してくれる。次の時間終わったら返す、忘れちゃった。」
「いいよ。ねえ、燈子、何か、香り着けてる?」
「分かる?GucciのEnvyよ。いいでしょ。」
「え、何、何て言ったの?」
何度も聞き返してしまい、呆れ顔の燈子にとうとうその香りの名前を紙に書かせた。
「これだよ。この香りで分かる。燈子だって分かった。」
「お姉ちゃんがくれたの。Envyはね、この香りが嫌いな人はいない香りなんだって。男でも女でも着けられるのよ。」
「ま、たしかに。どっちでもいい香り。」
「じゃあね、終わったらリーダー返しに来るね。」
おしゃれが似合う人には香りも似合う。
ふと、廊下のガラスに映った自分の垢抜けないシルエットを見る。純日本人体形の脚。丸い顔。薄い眉。
美しい燈子と比べてしまい、気が重くなる。
クリスマスの前にある発表会のためにバレエのレッスンが佳境に入っていた。演目の出演ために日曜日丸1日がレッスンになっていた。
くたくたになって地下鉄の駅に向かう。お腹が空いて眩暈がしていた。
切符を買おうとしたとき、隣の券売機で切符を買おうとしていた腕の長い男性とふと目が合う。御厨先輩だ。
「あ。」
先輩から先に声が出た。
先輩は私の顔は知っているけれど、私の名前などもう覚えてはいないだろう。
今年の春、私はクラスから学祭委員に選ばれてしまい、委員会活動をしていた。全学の委員長だったのが御厨亨(みくりやとおる)先輩。誰が見ても好青年ではあるのだが、堂々と教師たちや学区の自治会長とやり取りをしている姿に憧れない生徒はいなかったのではないだろうか。
存在が目立ってもおかしくないのに、あまり人前には出ず目立たない。
人前に出る役には口の立つ広報係を立ててしゃべらせ、自分はその後ろで控えているような人だった。
それでいて何かあれば、小さなトラブルにも必ず対応に出る。
規模の大きな学祭の運営に慣れなかった私は、何があっても決して狼狽しない御厨先輩の存在にどれほど精神的に助けられたことか。
学祭は終わり、委員会は解散した。
御厨先輩は素敵だけれど、私なんかの手の届かない人だった。
どんなに好きになったとしても、私は遠く圏外の存在でしかない。
それでも憧れの人が学校の中にいることは気持ちがよかった。
不特定多数の人が行きかう地下鉄の駅の券売機の前で偶然に会っても、一応、知らない仲ではない。
顔だけでも記憶に留めておいてもらえたらなら十分。ちょこっと頭を下げた。
「あー、ごめん。名前。」
「池内です。池内美奈子。」
「そうそう、みーな、だ。ごめん、制服じゃないから分からなかった。」
こちらだって、大学生にしかみえないような先輩の恰好は初めて見た。こんなところで会うなんて。
先輩は私の恰好を見て言った。
「バレエ?やってるの?」
「あ、はいそうです。」
レッスンの後の身支度も無精してシニヨンとタイツのままショートパンツとパーカーを羽織っているだけだった。
「久しぶり、かもね。元気だった?」
「あ、はい。元気です。」
話しかけてしまった以上、ぽつぽつ、と言葉を交わすしかなかった。緊張と、中途半端な気まずさで私は自分の顔が赤くなっていく気がした。
電車を待つ10分とかそのくらいの間、ホームで何か、他愛もない話をしていた。御厨先輩は自然にそういう会話ができる優しい人だった。
そんな事を新たに知って、私にとってはその短い時間が奇跡のように感じられた。こんな偶然ってあるんだ。
好きな人と、偶然に街で会って話せるなんて。御厨先輩とは普段は接点がないから、私とだけ会話してくれることなどなかっただろう。そんな用件ももう無いし。
電車がホームに入ってくる。先輩が先に電車に乗るので、ホームで別れる。
途中乗り換えがある私は次の電車を待つ。
電車の発車アナウンスの音楽で、先輩の「じゃあ」、という声は聞こえなかったけれど去り際に手を振ってくれた。
その瞬間。
頭を殴られるような衝撃だった。
あの薔薇の香水を嗅いだ。
まるでその像がその場にいたかのように雨宮先生を見た気がした。
私が街でこっそりと追いかけた、小柄な雨宮先生と横にいて腕を組んでいた男性。
その記憶が、電車へと去って行く御厨先輩の姿と重なった。
その後、街の中を歩いていても雨宮先生のデートを目撃することは2度となかった。
御厨先輩も間もなく卒業していった。
全ては私の勝手な思い込みだったのかもしれない。
そう思いながらも、今でも街の中で香りを手繰りよせていく。