Short story_零の香り
*****物語をインスパイアする香り・薫りたつ物語の実験******
アスファルトの上にリズムを刻むヒールの音に集中する。
それでも流れ込んでくる決壊した街に溢れる情報。
信号待ちの交差点。クラクション。大型ビジョン。広告。
:何も自分に強いることなく、ゆるりと自然のままに生きていこう。
:毎日が燃え尽きるほどの情熱の日々でなければ生きる意味がない。
:自分の中にあるコアを大事に。
:さあ、新しい目標と栄光に向かう活躍を。
:嫌な事は、しなくてもよい事。
:忍耐の先にあるものを掴み取れ。
:諦める勇気。
相反し混乱するイメージ、脅迫めいた激励、イメージの濁流の渦の中に巻き込まれていく人、人、人が落ちていく谷の底、スクランブル交差点。
遂に心が自分自身を向かなくなってしまった人達は、泡沫のように浮き上がり、その目はただ虚空を見つめている。
どれもこれも、イメージでしかない。
イメージは容易に色や形や大きさを変えて無秩序に混ざり合いながら、粘度の高い不透明な雲となりこの都市を覆っている。
惑わされないで。それらに何一つ実体はないのよ。貴方は何も実感していない。
それを知っているから、コツ、コツ、コツ、自分の歩幅で刻むリズムを失わないようにする。
自分の体力、持久力、意志の力、今の体調、欲求、それは外界のイメージの中に在るはずもない。
心とは自分の恒常性を保つために、生命進化の過程で獲得された機構。
その事実すらも見失う外部からの過剰なイメージ。
そして、イメージに疲弊した人々の歪んだ心から滲み出る僅かばかりの甘い稼ぎに群がる虫、虫、虫。
憧れのあの人。
自分の視点はあの人の視点とは同じではない。その人に憧れている、その自分の心を見失わないで。
同じ格好や同じものを持って同じ生活をする必要はない。
コツ、コツ、コツ、ビルに囲まれた空を見上げる。
花屋の店先に並ぶ秋明菊の白い花。マロニエの枯葉が舞う。
そう、この街は今、秋なのよ。大陸からの空気を感じて。目抜き通りを抜ける足音は軽い。
少し急な下りの曲道の先にある家。
ビルや大きな建物ばかりが続く一角に、標札も看板もない木戸がある。
いつも通っているはずの道なのに、まるで初めて見た気がする。
どうしても通り過ぎることができない。数歩戻って木戸の前に立ってみる。
竹の生垣は、料亭を思わせる。
建物の入り口はすぐには見つからないけれど、漂う香の香は主が歓待してくれることを伝えている。
その香りを標に、この家の主が他にも各所に配した繊細なサイン、寓意、意図を見逃さぬよう、感覚を研ぎ澄ませて敷地に入る。
美しい苔に覆われた蹲には、可憐な花をつけた萩の枝が一枝あしらわれている。
清水を柄杓ですくって手を清める。そばの石の上に竹を編んだ笊を見つけた。そっと蓋を開けると、中に清潔な切り晒が手拭きとして用意されていた。
外腰掛に腰を掛け、小さなハンドバッグを膝の上に乗せる。
暫し、目を閉じひんやりとした湿った土の匂いを吸い込む。東屋に向かって、水が打たれた石畳みが続く。
都心の中に在りながら、小さな結界の中に入ると、外界からまとわりついたいろんなものが剥がれていく。自然と呼吸は深まる。
棲みついている鶯が、木の茂みのどこかから自慢の声で啼く。
外界の塵芥を呼吸とともに払いきった、その頃合いを見逃さず、小さな離れの陰から和服姿が現れた。
とはいえ、見たことのない着物。平安時代の装束のような。
おそらく、この家の亭主の招きに付いていくと、石畳を抜けながら離れの東屋に入った。
亭主は終始無言だ。その年齢も、性別すらも判然としない。足音がしない。そして影もない。
時々私を振り返りニッと笑うその顔は、昔飼っていた兎を思わせる。
東屋は土間で、上がりの先に小さな赤い炭火が点る囲炉裏。小さなその離れの内側を照らす明かりはその炭火と小さな窓から和紙を賺す淡い光。
座布団を勧められる。
一間の東屋にはちいさな床の間があり、辛うじて外の光が届くそこには表装された古いグレゴリオ聖歌の軸が掛けられている。
どこからか冷たい風の流れが一筋、頬を撫でていった。
兎の顔、犬の顔、どんな顔にも見える亭主が水屋から小さなグラスを私の前に運びこんだ。水差しから空のグラスに細い糸のように水が注がれる。
グラスを手に取り、その水を味わう。
甘い。
とても柔らかく、胃に流れる前に喉で吸収されてしまいそうな水。
次第に、暗さにも目が慣れ、土壁の凹凸や床の艶やかな木肌も見えるようになった。
次に亭主は、小さな燭台を持ち出した。
蝋燭一本分の物語が始まる。
「自分を無にすることの如何に難しい事か」
何処からか響く声。自然に考えれば、その声は亭主が発してはいるのだろうけれど、今やスズメの顔となった亭主から日本語が語られるというのは、それはそれで不自然な事。何処かでみたことのあるような亭主の姿。
ついに思い出した。
この亭主の姿は鳥獣戯画に出てくる動物の姿そのままだ。
「ただ感じればいい。それがあなた自身の状態だ。腹が求めていないのに正午に合わせて食べることはない。心の存在を疎かにするのはよくない。」
亭主は大きなすり鉢を持ち出し、何かをその中に入れながら、擦木で何かを擦りだした。
そこから小さな皿に盛られて供されたのは、一口分の何か、白和えのような和え物。それは、精密ピンセットのような折れそうに細い箸とともに私の前に出された。
「召し上がれ。」
黙って一口、口に入れる。
草の苦み、そして香り。とてもよく知っている香り。何だろう。粒が感じられる木の実のかけら。噛み砕くと芳ばしさが溢れる。甘味。シャキシャキする触感の何か。
とても手の込んだ、一皿だ。
味わうにつれ次第に足のつま先、指先まで温かく血が通うのが感じられる。
皿が空く頃、鉄窯から湯が一口、椀に注がれ供される。
湯飲みの底には、赤紫蘇の実が3粒。口に入れ噛み潰すと、どこかで感じた懐かしさが溢れる。
「今の皿は、山で採れた栗と山菜の白和えでした。」
「心に沁みます。」
次に、重みのある平皿が出された。
その上にはまだ火炙りの焦げる匂いもそのままの炙り魚と菊の花びら。
漆黒の塗りの杯に酒が揺れる。
「虫養いではございますが、どうぞお召し上がりを。」
「豪勢です。頂きます。」
溜息とともに箸を取った。
「手前で採れたものばかりでして、お口に合えばよいのですが。」
「とても美味しく頂戴しています。季節を知ります。」
その会話は燭台の火の向こうと交わされているはずだが、その姿はもはや闇に溶け判然としない。
再度、椀に湯が注がれ、亭主は席中を改めたいと申し出る。
立ち上がり、引き戸を開け外に出る。釣瓶落としと言われるこの季節の日暮れの早さ。
中立の間も言葉を失う演出だ。
石畳の上にひとつ、そして苔蒸した石灯篭にも、火の燈った燭台が据えられていた。暮れゆく夕日の中の炎の赤さ、その熱の確かさ。飽きずに竹の葉のさらさらという音を聞いていた。
チーン、リーン、リーン、
手風鈴の音を合図に、再び引き戸を開け東屋に入る。本席がはじまる。
亭主の後ろには、10歳くらいの少女が二人、静かに控えている。その顔は、狐、狐。面なのか本当に獣なのか判然としない。
炉には赤々と炭が熾り鉄釜の中で湯が沸いている。
少女の一人が茶壷から茶葉を取り出し、もうひとりがそれを茶瓶とともに盆に載せて亭主に送った。
亭主は静かに柄杓で湯を汲み、茶瓶と茶碗を温める。湯を捨て、改めて茶葉を入れ、湯を注いだ。
ただ茶葉が開くのを待つ。全てが止まったように見え、しかし時は流れている。
手のひらに載るほどの小さな茶碗に茶が注がれた。
少女が亭主から茶碗を受け取り、私の前に差し出した。
私はそれを受け取り、一服。
香りに色があるとすれば、この金色の馨しさのことか。
金色の香りが鼻から喉へと広がった。
「この秋に取れたばかりの茶葉を数日干して作ったものです。」
「この驚きは2度と味わえない類の驚きのように感じます。こんなに輝かしい香りを私は他に知らない。」
「この茶席は、初めから無へと向かっています。そうすることで完成するのです。後には何も残らない。振り向けどもそこには何もない。再現もしない。ただ、もしあなたの心に響くものがあれば、余韻だけがあなたの記憶に残ります。」
その茶碗の一杯をゆっくりと飲み干す頃には、小さくなっていた炉の炭火。
暗くなっていく中、気配が薄れていく亭主と、狐の女(めの)童(わらわ)ふたり。
目を開くとそこは一人きりの闇。短くなって今にも消えそうな燭台の蝋燭の火。
私は静かに立ち上がり、東屋を出た。
月明かりを頼りに、敷地の外に出ればそこはいつもの鳥居坂下に出る道。
夜の六本木の喧噪。
この街に結界を張る半分人間、半分この世のものではない何か。
その結界を見つけて中に入るには、自分の感覚だけが頼りだ。自分の中で感じられたものだけが必要なこと。
どこかで、またあの香の薫りを探したい。そう願うけれども、亭主の言うとおり再現は無いだろう。自分の中の記憶だけが、何よりも尊い宝。感じたことだけが私を豊かにした。
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