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プリズム(4)tryとtest
試す。英語ではtryまたはtest。
つくづく、試されたくなんかないと思う。
あなたは何者?
何ができて、何ができない?
この場に、我々と共にあるのにふさわしいのかしら?
おはようからおやすみまでの間に、何度、誰かに、何かにわたしたちは試されているんだろう。その誰かは、時にわたし自身だったりするからうんざりする。
試された結果、何かを得ることができたのなら「わたしはOK」となるわけで。
何も与えられなかったら「わたしはNG」。
つまりは、あなたは我々が求めている技量をもっていなくて、我々と共にあるのはふさわしくない、と言われているです。
ああ、この世界に産まれてきたのはわたしの意思ではないのに。
ただ、わたしがわたしであるだけで、誰かに「試され」、
合格ならば歓喜し
不合格なら絶望する、その挙句、自分が自分を常に試して勝手に不合格を出している毎日だ。
本当は何にも、誰にも試されたくはない。
無条件で受け入れて欲しい。
このままの、
無力で、
美しくもなく、
弱いままのわたしを。
そもそも、このような形容詞はだれが基準を作っているのだろう。
試され続けたわたしは、すでに無気力だ。
それでも死にたくないから、必要最低限の頑張りはするけれど、とてもとてもtryなんてできない。
testがtryを奪っているのだとしたら。
もう、辞めよう。
誰かを試すようなことは。
家族や友人を、ましてや我が子を試すなんてことは。
わけもわからず産まれてきた。
それなのに、全力でtryしているのだ。
自力で呼吸をしようと。
自分の身体を自分で動かそうと。
やがて、目に映るものなんでも口の中に入れたり、おもちゃを触ってみたり、誰かとけんかしたり、親切にしたり、してもらったり。
testとtryを繰り返して大きくなってきたはずなのに、いつの間にかtestだけを受ける毎日の中で、tryを失ってしまうなんて。
~ができるから、~をあげる
~するなら、~を許してあげる
等価交換であるべきなんて、人間が人間の認知の限界の中で勝手に考え出した妄想のような観念かもしれない。
そんなメッセージ、親は与える必要はない。
大人になるにつれて、親以外の誰かに必ず迫られる、負うべき責任となる。その時に、せめてわたし自身だけでも、わたしを許せるように。