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【26歳ADHD女】幼少期から中学校時代の私

皆さんこんにちは。
先日は診断されるまでの状態などを話しました。
今日は、診断時に話した内容でもある私の今までを話せればと思います。
まとめるのめちゃ下手くそなので長いと思います、すみません🥲

母親再婚に伴う幼少期の引越

私の両親は生まれてすぐ、離婚したらしいです。
あまりにも小さかったので血縁の父を未だに知りません。
なんとなーく、灰色の外壁のめちゃでかい家を何度か見たのは覚えてるのですが、それが血縁の父が建てた家なのかどうかは定かじゃないです。

離婚してすぐ、私と母は祖母のお家で暮らしていました。
私はおばあちゃんのお家で暮らすのは当たり前だと思っていたことや、そもそも家族というのは母親と父親から成り立っている?という通常の家庭の形をあまり理解していなく、父親の存在が幼少期の記憶にない...というか、
いなくて当たり前だと思っていました。
母親は働きに出ていたため、幼少期はおばあちゃんに育ててもらっていました。なので、おばあちゃんは私にとって大切な育ての親です。

保育園に通っていたのですが、4歳かな?その辺で急に母親から、「町から市に引っ越して、都心に暮らそうと思うんだけどどう思う?苗字は、新しい名前になって、保育園から幼稚園になるの、どう思う?」と急に言われて、よくわからないのでひとまず「いいと思うよ」と言ったのを覚えています。
名前が変わるんだね、そうなんだとあまり深く考えていなかったです。
名前が変わるから、なんか別人になるみたいで逆にわくわくしたような。
当時、物静かであまり話さなくて思ったことはすぐに言わなかったです。
なんとなく当時、聞いたら迷惑になるかな、とも思っていました。

引越が決まり、保育園のお友達に、笑顔で、私名前が○○になるんだ〜って話したのを覚えてます。
保育園のお友達とはとても仲がよく、何も問題もなかったのをよく覚えていて、保育園の中でも気に入られていた方というのをはっきり覚えてます。どこ行っても当時、かわいいねぇ〜って言われてたのまだ忘れません。だから引っ越したら地獄なんて思わなかったんだと思います。

引越後の出来事 どこに行っても出る杭は打たれた私

引越しの話が出てから、多分1週間後くらいだったと思います。
おばあちゃんの家を、お母さんが運転するビビッドピンクのMOVE(ダイハツの軽ですね)で出ました。
いつもおばあちゃんは、お家の目の前の私道まで出て、手を振ってくれるのですがこの時ばかりは、手を振っていざおばあちゃんが見えなくなると大泣きしてたのを覚えています。その後しばらくして、母親が煙草を吸い出し、助手席にいた私は煙草の匂いをなぜか「いい匂いだね」と言って
母親がこれは臭いんだよと、言ってたのも覚えています。
今でも、おばあちゃんとおばあちゃんの家が大好きで恋しくなります。
相続の件でそのお家には行けなくなってしまったのでもう無理なんですが。

引越しをし、初めてアパートに暮らしました。
そこで初めて、新しい父親との生活が始まりました。
どう接したらいいのかよくわからず、歳も離れていたのでなんとなくおじいちゃんと同じ感じでいっかーと思ってました。
いきなりおばあちゃんなし&新しいお父さん
そして保育園から幼稚園に変わり
いろんな環境変化についていくのに大変でした。

新しい幼稚園は保育園とは全く雰囲気が違く、
ほんわかしていた雰囲気の保育園で慣れていたわたしには、
活動的で性格がキツめな人が多かった幼稚園はしんどかったです。
上裸でタオルを乾布摩擦しながら九九を言うなどもしていた記憶です。
体育の時間は、靴は禁止で素足でなくてはならなく、砂が変わったばっかりの時は痛くて大変だったのも忘れてないです。
おえかき、鍵盤ハーモニカ、英語といろいろ…もはや学校。
お昼は仕出しのお弁当で、とにかく不味くて全然食べれなくて、
先生に怒られてました。
たまーにでる、一口しかないコーンクリームコロッケだけ、
美味しかったからそれは必ず食べてたけど、他は全く食べれなかった...
あまりにも環境が違うのでもちろん私の性格?(おっとりなんですよね)も
周りと比べたら全然違くて、すぐにいじめの対象になりました。
数ヶ月後年長さんに上がったタイミングで、
誰にも仲間に入れてもらえない状態がずっと続きました。
理由は、絵が下手だから。
何をしてもばかにされるので、幼稚園のイベントは親をあまり呼びたくありませんでした。この経験から、特にお父さんをイベントごとに呼ぶのに抵抗が出始めました。〇〇のお母さん若くて綺麗だね、とか〇〇のお父さんあの人?とか普通に話すので、自分の両親のことをつべこべ言われるのが目に見えて嫌だったのです。(まわりの父兄と比べかなり歳が上だった)
この歳になると、申し訳ないことをしたなと思います。
ほっぺはつねられるし、痣はできるししんどいなぁってなりながらも、
虐めないで!と抵抗して卒園前に少しマシになった記憶があります。

その後、小学校に入学し、高学年に上がった頃。
私はまた、いじめの対象になりました。

あまり普段から勉強せず、4年生の時は転校生の影響でグレていたので、
周りからの印象は勉強しない子でした。成績は悪くはなかったです。

6年生の夏休み中に、塾がもともと好きだったのですが、
先生から出される算数の問題にはまりだし、ハリーポッターや宮部みゆきさん、乙一さん作品の小説にはまり、本の虫状態。

成績は悪くなかったのでさらに伸び続け、
先生から「あなた、中学受験したほうがいいよ。」と言われました。
当時、ドラマで「受験の神様」が放映されており、中学受験を知りました。世の中には私立学校があってこんなにいい環境があるのか。
いいなあ、私も行きたい。
私もこのドラマのように受験できる資格があるの?
普通みんな日能研のテスト受けて、入って、4年生からやってるのに?
私は6年生で、もう夏休み終わっちゃってるから時間も限られてる…
でも、先生は行けると言ってるし。。。と、いろいろ考え始めました。

地元中学は荒れていて、小学校近くの駄菓子屋で
煙草吸ってる連中がいてあまりいい印象ではありませんでした。
誕生月である9月の頭に、母親へ打ち明け、毎日のように土下座をし、
中学受験してもいいか説得して誕生日の日に許可を得ました。
1ヶ月近くかかりましたが、今となってはいい経験です。

許可を得た私は、小学校のお友達に打ち明けました。
「わたし、実は中学受験することにした。勉強するから遊べない。」
と伝えるとどよめきが。
応援してくれると思っていた友達が急にあざ笑う顔になっていき、
自分の心はその時点でズタボロ。
伝えてからすぐ、グループの友達全員に、そっけない対応をされて、
次の日からは、仲間にも入れてもらえず。
先生からペア組、グループ組などの指示が出ると、
いつもハラハラする羽目になりました。。。
いつも余り物になってしまったんです。
グループで仲良くしていた子たちのうちの数人は、
2人きりになると普通に接してくれるので、
本当に友達かなと思っていました。

打ち明けてから、しばらくずっと、嫌がらせが続きました。
・下駄箱の靴にゴミ
・上履きに画鋲(ドラマのライフの影響もろ受けです)
・雑巾の絞った汚い水が入ったバケツをかけられる
・机の中の道具箱の中身が鉛筆の黒鉛で汚される
・机が移動されている、落書きされている
担任の先生に伝え、見てもらうと、同じグループの他が
「先生みてください、私もですよ!!」と、
ゴミが入った靴を見せていて、まるで私が
自作自演のように言ってきたことがありました。

学校も地獄のような環境でしたが、
家庭内もなかなかでした。

居場所がなかったので、母親に全てを伝えて、
ただただ、優しい言葉と、守ってもらいたかったのですが、
むしろ逆で、「あんたが悪い」と罵られて
伝えた日から家庭内暴力・暴言が始まりました。
木製のダイニングチェアを投げつけられ、お腹に突撃したときは、
あまりの痛さに言葉が出なかったです。
たちが悪いのは、父親が大企業勤めで仕事に忙しく、
帰りは9時過ぎがザラなので、
父親には知られていなかったということです。
お父さんが帰ってくるころ、
私は自室で勉強する時間だったので滅多に顔を合わせませんでした。
なんのために生きているかわからなくなっていた月日もあり、
人生で初めての自殺をしようとして未遂で終わったのもこの時期です。
味方がおらず、人間不信で、本当に辛い時期でした。

そんな毎日を過ごしながら、2月の受験を迎え、
私は受験した学校全て合格しました。
合格発表後初めての登校の朝、クラスに入って合格したことを伝えると、
普段仲良くもしていないクラスメイトから、
「え、でもどうせ、文理なんでしょ?〇〇は特進だよ?」
と、即座に言われてあまりの悔しさに反論しようかと思いましたが
何も言葉が浮かばず、「そうだけど、何?」しか言えませんでした。
家に帰ってわんわん泣いたのを、今でもずっと覚えているし、
あの悔しさはまだ、忘れられないです。

誰も私の合格に関して心の底から喜んでいなかったです。
両親に関しては、私が本当に合格する、しかも全部ってのは予想もしてなかったみたいでびっくりしてました。
入学準備に、制服採寸など諸々やっていたら、あっという間に卒業式が。
やっと、おさらばできる。
この苦しみから解放される。と思ったら嬉しくて涙が出ました。
でも、卒業式が終わった後すぐに、仲の良かったグループの数名、
2人きりだと普通に接してくれていた子たちが、手紙を持って、
「あんたなんて、最初から友達だと思ってないから。フリだから。
何勘違いしてんの?」と言われました。

ちなみに、家に帰った後電話でも同じようなことを言ってきた人もいます。
かなり胸糞悪くて、ずっと泣いちゃってました。
ショックで頭狂いそうだったけど、でも次の日くらいから、
いらねえあんなやつら、考え方ダサいし。
頭悪い。私別に都内の中学校行くし、レベルが違うから相手にならん。
そう思って、何も気にならなくなりました。
卒業後は、中学での生活が楽しみで入学するまでワクワクしていました。

憧れの女子校へ 出鼻をくじかれた1学期

春になり、憧れていた女子校での学校生活がスタートしました。
いろいろなエリアからやってきたクラスメイトは、本当に興味深く、
都内はもちろんですが、神奈川、千葉、埼玉、茨城と、本当に広範囲で
小学校6年生の時に都内の路線全てを覚えたことは参考にならなかったので
また新たに駅や路線を覚えるのが楽しかったのを覚えています。
小学校で散々村八分されたので、今度こそ、うまくやりたい!
そんな気持ちでいっぱいで必死でした。
クラスメイトのみんなと友達になろうと、プロフィールカードを渡して書いてもらったり、自分から話しかけることを心がけました。
そうすると、一緒に帰ろう!一緒に体育館まで移動しよう!とか、誘ってもらえるようになって当時は泣きそうになったくらい嬉しかったです。
誰かと一緒に行動できてると思うと感動しました。
2ヶ月くらいすると、自分がそれなりに評価されていると調子乗って勘違いしたんでしょうね。2つの大きなグループ同士が喧嘩をして、自分にどっちが悪いか判断して欲しいと言われました。
答えを出さないのがここでは正解なのですが、そんなのわからない自分は、
答えを出しちゃいました。大ブーイングを受けて、最終的にはクラスみんなに嫌われました。お友達がいなくなった自分はまた、一人になりました。
毎日泣いて、学校も行きたくなかったんですが高い授業料を両親に説得して行っている身ですから、どんな理由であれ休める立場ではないと判断し、なんとか行ってました。
でも、クラスメイトの一部でまだ関わっていなかった子達がいて、その子達に「ごめん、助けて欲しい。毎日が辛い。私はどこで間違えてしまったのかな?友達になって欲しい…」みたいな感じで本当に必死に助けを求めてました。そうすると、一緒に学校のカウンセラーさんと話に行ってくれたり、話を聞いてくれたり、集団リンチ?されかけたときに一緒に隣駅まで逃げてくれたりと、本当に今までのお友達ではしてくれなかったことをしてくれました。

このいじめをきっかけに、友達の概念が自分の中で変わりました。
大人になっても、見た目だけで親友と思う人や、友達の財産・ステータスで親友と思う人が多くいますが、私はこの経験でそれは友達ではないとわかったので良い経験でした。中学校でのいじめは、学ぶことができたんです。
今でも、中学でのお友達は定期的に話す仲です。

さて、だいぶ長くなってしまいましたので、一旦ここまでにします。
高校から最近までの自分も別記事で残したいと思います。
少しでも、参考になれば嬉しいですが参考にならないか…笑
それでは、またの記事でお会いしましょう!


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