#11 ナル的言語と文化(下)
(前号の続き;日本語では「驚かされた」ではなく「驚いた」と表現することについて)
英語では「喜ぶ−be delighted」などもそうであるように、<何かが私をそうさせる>という事態把握がなされます。一方、日本語では<自然とそうなる>、つまり自発的に気持ちが生じる「ナル」的表現が用いられます。
この背景には、英語が事態の客観的把握に沿って、つまり話し手が出来事の外側に立って言語化するのに対して、日本語では話し手が出来事の内側に入り、話者の感覚で描写するため、話者の存在自体は客体化、言語化されないことが要因にあるとされます。
「する」文化
こうした「ナル」表現的な日本語ということを考えていたとき、ふと手にしたハルオ・シラネ(2020)『四季の創造−日本文化と自然感の系譜』を読んでいると次のようなくだりに出会いました。
なるほど、これは面白い指摘です。優れた歌や俳句を作るかどうかはともかく、日本の文化は素人でも歌人、俳人と名乗ることができます。西洋において古来、詩人が特別な職業であったこととは、一線を画すようです。私たちはただ短歌や俳句を「読む」だけではなく「詠む」ことを楽しむことができるのです。新聞をはじめとして、さまざまな機関誌に毎週、毎月「短歌」や「俳句」のコーナーが設けられ、市井の人々が詠んだ作品が盛んに掲載されています。こんなふうに伝統文化を誰もが実践して享受できる国は、そんなに多くはないことかもしれません。
ナル的言語のスル文化
しかし、ここで立ち止まって考えます。日本の文化はやはり「ナル」的思考に支えられているのではないかと。例えば、みなさんは習いごとを始めるときに、どんな思いで門を叩きますか。
私も上手な歌詠みになりたい。
茶道を学ぶことで日本の文化に詳しくなりたい。
というように「〜になりたい」「〜するようになりたい」と、根底に「ナル」があるのではないでしょうか。ここでつきあたるのは、日本語では守屋三千代氏が指摘する
という言語事実なのです。
以前、「海外では2週間学んだだけで誰でも<先生>になるんですよ」と苦言をもらされた伝統芸術の先生がおられました。日本の文化は誰でも参加はできますが、誰でも師匠になれるわけではありません。それは、技術を「する(行う)」ことよりはあるべき姿に「なる」ことを目指す精神性が先立っているからではないでしょうか。
この芸術の秋、「スル」と「ナル」について、ささやかなきっかけから日本の文化を見つめる機会となりました。
#ナル的言語と文化(下)終わり
エッセイは毎週金曜日に発信します。
【参考文献】
池上嘉彦(1981)
『「する」と「なる」の言語学』大修館書店
池上嘉彦・守屋三千代(2010)
『自然な日本語を教えるために−認知言語学をふまえて』ひつじ書房
ハルオ・シラネ(2020)
『四季の創造−日本文化と自然感の系譜』北村結花訳、KADOKAWA
守屋三千代(2017)
「『ナル表現』をめぐる認知言語学的研究−類型論を視野に入れて」
『日本語日本文学 』(27) 創価大学日本語日本文学会