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"映える☆"と聞いて訪れた街は第二次世界大戦勃発の地だった

2019年早春。

私はヨーロッパの地図と睨めっこしていた。

夏になると毎年ヨーロッパに旅行していた。大抵女性の二人旅、ツレが見つからなければ一人旅だったので、安全面を考えると、日照時間の長い夏が良かった。

今年はどこに行こうかと悩んでいた時に、大学時代、旅行好きだった先輩の言葉が蘇ってきた。

"ポーランドのクラクフは街が超可愛くてめっちゃよかったよ〜。"

ポーランド。

調べると西側諸国より物価は安め、治安は良好、ご飯は美味しい。

陶器が有名なのは知っていた。可愛い雑貨があると言うのはポイントが高い。

わざわざ行くなら、ポーランド内で他に行くところがないかGoogleさんで検索。調べるとこんな情報が出てくる。

"バルト海に面したリゾート地、グダニスク。中世に栄えた美しい街並み"

貿易で栄えた港町で、琥珀が有名らしい。

旅行記事掲載サイトの写真の街並みの写真が綺麗だったのと、"そういえばバルト海って見たことないや"と思い、私はグダニスクを旅行日程に組み込むことにした。

ヨーロッパは何回か訪れているが、グダニスクの街並みは私が今まで訪れた街の中でもトップ3にはまずランクインするだろうという美しさだった。

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琥珀が有名なグダニスクでは、琥珀細工が街の至る所で売られている。

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この建物の前に飾られる琥珀の芸術が、グダニスクの旧市街の風景を一層華やかにしていた。

グダニスクの街の真ん中は運河が通っており、その川を少し下るとバルト海に出ることができる。観光遊覧船に乗って海の近くまで行けるらしいので往復のチケットを買い、船に乗り込んだ。

少し街の中心を離れると港町らしく、荷上げをするような倉庫やクレーンが並んでいる。

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段々海が近づいてくると、奇妙なものが見えてくる。

やたらと巨大なモニュメントらしきものが立っているのだ。

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船はバルト海には出ず、海の手前にあるそのモニュメントにほど近いところに停泊した。そのまま留まる人もいれば、降りる人もいた。

私はなぜ船がこんな中途半端なところで止まったのかもわからなかったし、これが何のモニュメントがなのかもわからなかった。

降りてもモニュメント以外は緑地が広がっているだけで街も商店もなさそうだし、Googleマップで見ても単に巨大な公園に思えた。

船は1時間ごとにしか運行していない。降りたとして、この巨大な緑地で1時間も潰れるとは思えなかたし、uberも果たして来てくれるのかというぐらい街の外れにあったので私はそのまま船に留まり街に戻ることにした。

あれはなんだったのだろうと思いつつ、再び街を散策すると、とあるお土産屋さんで先ほど見たモニュメントのミニチュアの飾りが売られていることに気づく。

また、街を歩いて気になったことがあった。昔の写真を売っているらしいお店の前を通り過ぎた。それが写真屋さんなのか、アートギャラリーなのか、はたまた、ただの土産屋なのかわからなかったが、モノクロの写真に”Danzig” と書いてある街の写真が店頭に飾られている。

Danzigとはどこのことで、グダニスクと何の関係のある街なのだろうか。

わざわざ店頭の一番目立つところに飾っているので深い縁があるところに思える。

どうにも頭に引っかかったので、後から調べてみたのだが…

なぜこんな大事な情報、事前に把握していなかったのか。自分の無知をこんなにも嘆いたことはなかったかも知れない。

まず、船から見えたモニュメント。船の停留所にWesterplatteと名前があったのでそれを足掛かりに調べると、1939年9月1日、ナチスドイツが攻め入り、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の火蓋が切って落とされた場所であり、船から見えたモニュメントはこの出来事を象徴しているのだという。

以下、別のサイトから引用させていただく。

1939年9月1日早朝、ドイツ軍がポーランドに侵攻。これを受けて9月3日にはイギリス・フランスがドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が始まりました。ドイツ軍はグディニャ、ヘル半島、シロンスク地方南東部、ヴィエルコポルスキ地方、ワルシャワなどのを空爆。

一番最初にドイツ軍の攻撃の被害にあったのはヴィエルンという都市であると言われていますが、ポーランドで第2次世界大戦勃発のシンボルとなっているのは、グダンスクの中心部から少し離れたところにあるヴェステルプラッテという岬です。

1939年9月1日早朝の4時45分、ドイツの戦艦シュレスヴィヒ・ホルスタインが、ポーランドの守備部隊が駐屯していた自由都市ダンツィヒ(現在はポーランド領グダンスク)にあるヴェステルプラッテ(Westerplatte)に砲撃を開始しました。この戦艦は1939年8月25日に親善目的の理由でダンツィヒを訪れており、ヴェステルプラッテの近くに停泊していました。

約2600人のドイツ軍に対し、指揮官ヘンリク・スハルスキ少佐含めたポーランド軍はわずか205名。人数の圧倒的差もあり、ドイツ軍が簡単に勝利すると思われたもののポーランド軍も機関銃や野砲などで応戦。しかしドイツ軍による急下降爆撃での被害や水・食料・医療品などが底をつき、9月7日にポーランド軍は降伏せざるを得ませんでした。この7日間でのポーランド側の被害は死者14人・負傷者53人。それに対してドイツ側の死傷者は数百人にのぼると言われています。

上記を読んでお気づきの方もいらっしゃると思うが、私が見かけた Danzig という街の名前はかつてのグダニスクの名前、しかもドイツ語名だったのだ。

ウィキペディアを始めとするインターネットでざっくりと調べた雑な内容で申し訳ないが、第二次世界大戦前のグダニスクの経緯は以下の様な感じだ。

ポーランド王国時代はポーランドの保護下にあった
 ↓
ポーランド王国が消滅後、プロセイン王国(昔のドイツ)の支配下に入る
 ↓
第一次世界大戦後、ベルサイユ条約によりドイツから取り上げられる

こう言った経緯から、第一次世界大戦後のグダニスクは、ポーランド人よりもドイツ系住民がほとんどを占めており、ドイツから取り上げた時、ポーランド領にするにはドイツ人ばっかりだし…ということで、どこの国にも属さない自由都市という位置付けなったものの、実際の市の管理はほぼポーランドによって行われたようだ。

ナチスドイツはベルサイユ条約で放棄させられた元ドイツ領を取り返すべく、地政学的にも重要なグダニスクについてポーランドと交渉するのも、ポーランドはグダニスクを手放すことを拒否。

そして1939年9月1日、ナチスドイツがヴェステルプラッテに攻め入ったのだ。

かなりざっくりと書いており、私もそこまで歴史に明るくないので、詳細を知りたい方は自分で調べて欲しい。もし間違っていることがあれば、コメント欄でご指摘いただきたい。

美しい街並みを誇るグダニスク。歩いていて、他にも大戦に関連するものを見かけた。

観光地化されているところは、街中に有名観光地への案内板が設置されていることがある。

その中に、「郵便局はこちら」という案内を見つけた。

なぜ他の観光地に混じって郵便局が案内されているのか、何か謂れのあるものなのかと調べると、こちらもナチスドイツが侵攻した際に戦いのあった場所だという。

ダンツィヒのポーランド郵便局の攻防は、ダンツィヒ(現在のグダニスク)で行われた、第二次世界大戦のドイツによるポーランド侵攻における初戦の戦いの1つである。1939年9月1日、ポーランドの市民がドイツのSSと秩序警察の特殊部隊(ダンツィヒ警察)の攻撃に15時間にわたって持ちこたえた。降伏後、4人のみが逃走に成功し、残りの生存者はナチス・ドイツの裁判所において死刑判決を受け、パルチザンとして10月5日に処刑された。

そして、ポーランドという国はドイツだけに苦しめたわけではないのはご存知の方も多いと思う。

こちらは街の教会で見かけたレリーフだ。ポーランド語がわからなくても、事件のことを知っていればピンとくるかも知れない。

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レリーフの下のポーランド語はGoogle翻訳で調べたところ、「殉教の犠牲者の記憶を後世に」といった感じの意味のようだ。(ちゃんと翻訳できているのか分からないが…)

どのような経緯で教会にこのレリーフが飾られる様になったのか分からなかったが、確かなのはカティンの森事件を後世に伝えるために設置しているということだ。大戦中、捕虜となったポーランド将校たちをソ連が虐殺した事件である。

カティンの森事件については映画も作成されている。

※こちらの映画、将校たちを殺戮するシーンもしっかり描いているらしく、私は映像を見る勇気が出なかったので事件についてウィキペディア等で勉強するにとどまっている。レビューを読むと該当のシーンはかなり衝撃的で、精神的にキツいらしいのでご覧になる方は覚悟を持った上で見てほしい。

ナチスドイツに占領された街にはその後、連合軍側であるソ連もやってきた。

忘れもしないもしないのが、旧市街の入り口の門である。

グダニスクの旧市街には下の写真のように街の淵に出入りするための門がいくつかあり、トンネルを潜って街に入れる様になっている。

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そのうちの一つの門のトンネルの壁にモノクロの写真が飾ってあった。写真の下に「1945」という数字のみが書かれている。

今となっては写真を取っておかなかったことが悔やまれるのだが、データを漁っていたら別の施設で撮った似たような写真が残っていた。

ヴェステルプラッテにナチスが侵攻し、ソ連がやってきて、グダニスクがどうなったのか。

1945年、第二次世界大戦末期のグダニスクの姿である。

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今ある街並みは、残された資料を元に戦後人々が復元したのだ。

街の入り口に飾られた廃墟の写真からは、この廃墟からどれほど街が美しく蘇ったのか見て欲しいというグダニスクの人々の誇りと、2度とこのような姿にしたくないと言う平和への祈りが感じられた。

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グダニスクを離れる時、私はすごく複雑な心境だった。

景色が綺麗でご飯が美味しい。ただそれだけの理由で、さして下調べもせず、この街がどういう歴史を辿った街なのかも知らず、呑気な気持ちで来てしまったことが恥ずかしかった。

なぜならグダニスクという街は、かつての歴史が忘れられないように、自らの苦難の歴史にきちんと向かい合い伝えていくという姿勢が、ただ街をフラっと散歩しているだけでも感じられたからである。

旅行のモチベーションを全てそちらに振る必要もないと思うが、その姿勢と歴史を受け止める覚悟は少しはあった方がよかっただろう。

そして、これは記事で触れていないクラクフの街でも感じたことだが、街中で少し気になったことを調べると出てくる歴史の一つ一つが重たいことが多く、精神的に辛くなることもあった。現地に来てから存在を知ったヴェステルプラッテや郵便局も、第二次世界大戦博物館も時間を作って行けばよかったのだが、当時は仕事のストレスでかなり弱っていて、それ以上受け止めるキャパシティが私にはなかった。

グダニスクの空港からポーランドを離れた時にどこかホッとしている自分もいて、そんな自分にまた罪悪感を覚えた。

そこで生きている人々はその歴史に向かい続けるのだから。

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2022年2月24日。朝起きると、ロシアのプーチン大統領が軍事作戦を支持し、緊迫していたウクライナにおいて戦争が始まったというニュースが飛び込んできた。

その日の夜、仕事が終わってからテレビをつけるとちょうどホワイトハウスからサキ大統領報道官の記者会見を中継していた。

「戦場のピアニスト」と言う同じく第二次世界大戦時のポーランドを描いた映画の冒頭で、ポーランドの首都ワルシャワに住む主人公家族がラジオを囲みながらニュースを聞くシーンがある。

ドイツの侵攻の数日後に、イギリスとフランスが宣戦布告したことを聞いて「イギリスとフランスが助けに来てくれる」と家族の一人がいう。

イギリスもフランスもポーランドを助けに来てはくれなかったが。

私は、自分が21世紀にいながら、第二次世界大戦のポーランド侵攻のニュースを聞いている20世紀の市民であるかのような感覚に陥った。

もちろん1939年と2022年では世界の状況は随分と違っている。でも、人類がかつての大戦の歴史を繰り返すかどうかの瀬戸際にいるのはおそらく事実であろう。

歴史を知れば戦争がなくなるわけではないが、いつか書こうと思っていた、第二次世界大戦の幕開けの場となったグダニスクという街の話、何か思考のきっかけになれば幸いである。

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身近な人の死を嘆くマリアたちが少しでも少なく事態が収束しますように。

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