社会人大学院生と指導教員のキョリ
先生という単語が嫌いだ
辞書によれば、指導的立場にある人のことを「先生」と呼ぶそうです。
一方で、教員という呼び方もあります。これは「もっぱら職業として教育を行う人」のことらしいので、教員は先生に包含される単語です。
小学生から大学を卒業するまで、「先生」という単語を無意識につかっていましたが、社会人大学院生になったときに、「先生」という単語にとても大きな違和感を感じました。
先生という単語には、一方向性の印象を抱いてしまいます。上から下へ、というイメージです。だから、先生という単語にはとても強い上下関係を感じてしまいます。実際に指導を受けていますし、専門知識という意味において、上下関係と一方向性は間違いなくあるのですが、先生という単語に、社会人としての自分がとても大きな違和感を感じるのです。
だって、職場の先輩のこと、「先生」って呼ばないのですから。
大学院は社会人にとって未知のサードプレイスになる
概ね2つの側面が、働く社会人にあるはずです。家と職場です。
「家族」とはいいません。家でゴロンとしているあなた、Netflixを見ている彼、猫を愛でている彼女。家で見せる姿はおそらく誰にでもあるのではないでしょうか。
社会人が大学院に通うと、ここにさらに「大学」という場所が加わります。
かつて、家と大学、という2つの場所を平気でこなしていたはずなのに、どうやら今度の「大学」は、いままでと違うぞ?と、気づきます(強制的に気付かされる)。
社会人としての大学院は、こんな新しい様相を見せてくれます。
・自分の関心を追求して良い
・セーフティがない(子供じゃないので学務はあなたを助けない)
・上司も嫌いな同僚もいない(クリーンな人間関係がある)
・自分自身の頑張りが純粋に個人として評価される空間が
「個」としての自分が、よくも悪くも色濃く出る空間だと、私は感じています。
社会人院生と指導教員の関係=アナキン-オビワン
スターウォーズを見ていればわかるのですが、マスターの下に「パダワン」という教え子的な存在がいます。
スターウォーズを深堀りするつもりはありませんが、確かに「弟子」なのですが、イチ人間としての関係性や、異論反論、独立行動を伴う成長の促しをする側面がこの2者の関係には存在しています。
社会人院生と指導教員の関係性や距離感は、まさにこれです。
先生ではあるのですが、社会人としては対等です。そして博士ともなると、異論反論はむしろ推奨されます。ヒントや教えはありますが、あくまで個人の関心を突き詰める行動こそが博士としての必須行動でもあります。
社会人になって博士になりたい、という人は、自分はパダワンに向いているかな?と煮詰めてみてください。もうちょっとおんぶにだっこしてほしいな〜と思う方が大半だと思いますが、確実に苦労します。
一番のストレスは、指導教員と人間関係
論文を調べたり、統計処理をすることは、もはや一種の作業です。そして最初からこれは心の準備ができている。だって必須作業なのですから。
しかし、指導教員との関係はそうではありません。会社なら上司と合わなければ、人事にでも言えばいいかもしれませんが、大学院でそれは不可能です。
そして、できないやつだな〜と思われても、会社なら誰かがなんとかしてくれるかもしれませんが、大学院では無理です。学位を得るどころか、卒業すら不可能でしょう。
だからこそ、「逃げられない関係」として指導教員との相性はとても重要です。
私の場合、かなり幸運に恵まれました。労を尽くして教育に勤しんでくれ、見返りを求めずにアドバイスやサポートをしてくれ、だめな部分を放置せず「ここはだめだよ」と叱責してくれる、まさに最高の師匠に巡り合うことができています。
だからこそ、博士になるぞー!という人に、問いです。
研究以前に、あなたは指導教員との正しい距離感、見つけられますか?
そう。悲しいかな、博士になっても運とコミュ力からは逃げられないのです。
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