ヒーローの適正人数

ここに書くまでもないささいなことだが、書かずにガマンできるほどささいでもない、むかしから気になることというのがたくさんある。
古今東西、ヒーローもの(ヒロインの場合も含む)の創作はことごとく、1人のヒーローか、大勢のヒーローかの、いずれかである。
2人のヒーローものというのは、ない。
いや、あってもヒットしない。

ちょっと例をあげれば……

■1人のヒーロー

スーパーマン、スパイダーマン、バットマン、ウルトラマン、仮面ライダー、ダーティハリー、木枯らし紋次郎、ポパイ、ターザン、スケバン刑事、銭形平次、ジェームズ・ボンド、丹下左膳、ローン・レンジャー、桃太郎……(年齢を疑われそうな気がしてきたからこのへんでやめとく)

■3人のヒーロー

三銃士、サンバルカン、チャーリーズ・エンジェル、肉弾三勇士、三人吉三巴白波、ある意味でのゴーストバスターズ、ちから太郎……

■4人のヒーロー

アンタッチャブル(ただし映画のやつ)、三銃士に見習い銃士のダルタニアンを入れて考えた場合の三銃士、別の意味でのゴーストバスターズ、西遊記、Aチーム……

■5人のヒーロー

ゴレンジャー、ゴーグルファイブ、ダイナマン、フラッシュマン、デンジマン、ターボレンジャー、白波五人男……

■6人またはそれより多いヒーロー

少年探偵団、太陽に吠えろ、西部警察、サイボーグ009、七人の侍、サムライ7、荒野の七人、七人の刑事、刑事7人、黄金の七人、七人の女弁護士、サンダーバード、里見八犬伝、真田十勇士、肉弾十勇士、忠臣蔵、水滸伝、天保水滸伝、次郎長三国志……(だんだん自分でも卑怯な数え方な気がしてきたからやめる)

ま、何を言いたいかと言うと、2人のヒーローものというのは極端に少ない。
なーんてことを言うと、いろいろと熱い反論をおっしゃりたくて自制のきかない方がドッとおいでになるだろう。

■予想される反論1「鞍馬天狗はどうなるんだよ! え?」

たしかに鞍馬天狗の杉作や、バットマンのロビン少年、インディ・ジョーンズ魔宮の伝説の中国人運転手少年、明智小五郎の小林君らは、ヒーローを助け、ある意味ヒーロー以上に人気のある強烈な少年たちである。
が、それは裏を返せば、ヒーローとの上下関係、物語におけるたがいの立ち位置の区別が判然としているからこそおいしいポジショニングなのであって、この場合やはりヒーローは1人とみなすべきである。
また少年ではないが、一心太助の大久保彦左衛門や、ドン・キホーテのサンチョ・パンサ、仮面ライダーの滝、ロビン・フッドのリトル・ジョーンらについても同じことが言える。
相棒は微妙だが、やはり右京さんという第1期から変わらぬレギュラー・ヒーローと、何度か変遷を経てきた彼の相棒役とでは、フラットな立ち位置といいがたい。
ダイ・ハード・シリーズも同様である。

■予想される反論2「ウルトラマンエースはどうなのよ。あーん?」

これも、やはり2人の男女が合体して1人の巨大なウルトラマンというヒーローになったうえで活躍するとみなすのが妥当であろう。
さらに、大変言いづらいことながらウルトラマンエースって、輝かしいウルトラマン・シリーズのなかではかなり無名なほうなのじゃないだろうか、たぶん。

■予想される反論3「タイムボカン・シリーズはどうなるって言うのさ、このスカポンタン。」

なかなかのケンマクですね。
たしかにタイムボカン・シリーズはことごとく、男女1対の主人公による一見勧善懲悪の冒険活劇である。
また、男女の力関係には上下がなく、きわめてフラットな立ち位置で、それぞれに見せ場もあれば花もある。
が、よくよく冷静になってほしい。
あれは、ヒーローものか?
ヒーローものなのか??
ちがう。
あれはヒーローもののふりをしつつ、実は逆に、悪のトリオの魅力を粋に楽しく活写し、“勧悪懲善”にわざと大失敗してみせた最高の喜劇である。

■予想される反論4「じゃあ、あぶない刑事は?」

そう。
そこである。
すんどめが今回ペンをとったのは、まさにそのことについて考えたかったからである。

なるほどむかしから、男のツー・ショットによるヒーローものというのはあるし、数だって多いように思える。
リーサル・ウェポン、48時間、ルーキー、ハーレーダビッドソン&マルボロマン、そして、あぶない刑事。
だが、これらのライン・アップを見て、なにかこう、ひとつの共通したものを見出さないだろうか。
すんどめ思うに、それは「笑い」である。
これらはみな、ヒーローものと呼ぶのがもったいないくらい、粋で楽しい、面白い脚本ばかりである。
え? 
ハーレーダビッドソン&マルボロマン?
すんません、観てません。
笑えるかどうか知りません。
けど、ハーレーダビッドソン&マルボロマンって、そもそもヒットしたのか? (←ミもフタもない開き直り。)
つまり、男のツー・ショットものでそこそこ歴史に残る傑作というのは、すべからく「笑える」方向での面白さなのであって、それはヒーローものとしての魅力ではない!
と、言い切るのも乱暴だ。
が、少なくとも、ヒーローものとしての魅力だけで語れるような枠を超えてしまうようなところが、どうもこの「男のツー・ショットもの」にはある。

むかし、バイクロッサーという、たしか兄弟2人のヒーローものがあった。
たしかにある程度まではマジメなヒーローもので、3人のサンバルカンや5人のゴレンジャーに向こうを張る気合を感じた。
なにしろ、兄弟2人そろって自宅のクローゼットのかんのんびらきを左右に開けると、怪奇にもクローゼットから目もくらむような光があふれ出し、あれよあれよという間に2人は変身してしまうのだからアツい。
が、あれも結局人々の記憶への残り方、語り継がれ方は、ゴレンジャーやゴーグルファイブの輝きの前には、まるでサハラ砂漠の近所にある砂場のように、無にひとしい。

マジメなヒーローものでヒットをねらうには、2人という人数はあり得ないのだ。
やはりマジメなヒーローたるもの、孤独に1人で戦うか、またはみんなで力を合わせて戦うのでなければならない。
2人を主人公にしてしまうと、どうしても、そう、漫才になってしまう。
2人のあいだのボケ・ツッコミの面白さでわれわれを魅了する一連の作品群は、やはりヒーローものとは一線を画し、「ツー・ショットもの」「漫才もの」とでも呼んで別個にカテゴライズすべきであろう。
このようなカテゴリーを作れば、逆にヒーローでないものも、どんどんこのカテゴリーに入れることができる。
当然、その中をさらに「女女もの」「男男もの」「男女もの」と3つに分けることができるだろう。
とりわけ「男男もの」の笑える傑作として、上に挙げたリーサル・ウェポンや48時間やあぶない刑事といったヒーローもののほか、チンピラ、ブルース・ブラザーズ、ビーバップ・ハイスクール、といった、ヒーローものとはマッタク関係のない作品群も仲間に入れることができる。
できるばかりかこうして分類し直すと、奥歯に挟まっていたものがつまようじで摘出されたときのようにスッキリする。
そしてそして、そんな「笑える男男ツー・ショットもの」の真髄であり原点でもある名作である、とすんどめがむかしから位置づけているのは、そう、実在の銀行強盗ブッチ・キャッシディとサンダンス・キッドの半生を描いた西部劇映画『明日に向かって撃て!』なわけである。
(突如ここから、作品名には『』をつける。)

『明日に向かって撃て!』(1969年、米)では、主人公であり実在した銀行強盗でもあるブッチ(ポール・ニューマン)とサンダンス(ロバート・レッドフォード)が、つねに漫才のようなかけあいを怠らない。
天才的なジョークと辛らつなボケ・ツッコミに満ち満ちた彼らのかけあいは、どんなにピンチな場面でも飽くことを知らない。
いやむしろ、ピンチになればなるほど冴えてくる。
その極めつけは、警官隊に包囲され、銃撃され、血を流し、弾も尽き、絶体絶命になったときのそれであろう。
これから死のうというときにも互いをこっぴどくケナシあい、楽しい漫才をやめようとしない2人の生きざまこそは、この映画の本質とさえ言える。
もともとの脚本じたいがそうとう冴えている上に、われわれ日本人にとって大変嬉しいことには、吹き替えの段階でさらに翻訳家のセンスが光る。

ブッチ「あれでも援護射撃のつもりかよ」
サンダンス「あれでも走ったのかよ。おらあまた、ハイハイしてるのかと思ったぜ」
ブ「ガンマンだっていうから百発百中だと思ったのによ」
サ「百発、どこに弾があるよ」
(記憶による引用)

西洋人がこれほどすばらしい日本語のシャレを言うとは。

余談ながらすんどめは、洋物の吹き替えで日本語のシャレや日本語文化がベースになった笑いが現れる作品に弱い。
『Aチーム』のモンキーによる、
「新しい映画のタイトル考えたんだ。『戦場にかけるはしご』」
というセリフは、英語ではいったい何と言っているのだろう。
同様に、
「果たして正が勝つか邪が勝つか。聖者は町にやってくるか。2つの大きな疑問を残し、物語はクライマックスへと突入して行くのであった」
というセリフは、翻訳家の脚本なのか、それとも声優・富山敬のアドリブなのか。
また『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、ジョージがロレインに向って、
「ロレイン。君と僕は結ばれる運動」
ロレインは、何の話か分からない、といったようすで困惑顔。
「いや、ちがうな。ロレイン。君と僕は結ばれる運転」
それでもロレインは意味が分からず戸惑うばかり。
「いや、これもちがうな。君と僕は結ばれる……、結ばれる運命、そう、運命だよ!」
ここで初めてロレインは夢見るような顔つきになり、
「まあ、ジョージ……」
バカだろう、ロレイン。
さらに衝撃的なのは、『奥様は魔女』である。
魔女だけがかかる病気に感染したサマンサは、そのひとつの症状として顔に斑点ができてしまうのだが、もうひとつの症状として、なんと七五調でしかしゃべれなくなる。
アメリカのドラマなのに、日本古来のリズム・七五調である。
吹き替えだからこそ可能な、謎すぎる展開。
ところが、この病気が母親のエンドラにも伝染してしまい、それに気づいたみんなはハッとなってエンドラを見る。
それでエンドラもハッとなり、数秒の沈黙ののち、
「ついているかな水玉模様」

さて……
『明日に向かって撃て!』におけるこうしたブッチとサンダンスのかけあいは、日本の『あぶない刑事』に引き継がれ、

タカ「ねえ、僕たち『明日に向かって撃て!』みたいじゃない?」
ユウジ「うん。おれポール・ニューマン」
タカ「じゃ、おれロバート・レッドフォード」
(記憶による引用)

などというあからさまなセリフにもそのことが伺える。
また、柴田恭兵の出世作で日本映画史に金字塔を打ち建てたと言ってよい『チンピラ』では、柴田恭兵とジョニー大倉の、逆に仲の良いかけあいが絶妙な笑いをかもした。
『チンピラ』の2名は、どのシーンでも必ず服がおそろいで、場合によっては鮮明な色ちがい。
柴田恭兵がサングラスをかけているシーンではジョニー大倉もかけており、柴田恭兵がかけていないシーンではジョニー大倉もかけていない。
そのぐらい〔ツー・ショットもの〕としての視覚的インパクトが徹底して図られている。
また、『チンピラ』はストーリー面では『スティング』の強い影響下にあるどころか、日本映画史上、ストーリー面でアメリカの『スティング』に比肩しうる唯一の作品と断言したい珠玉の脚本である。
その『スティング』にしてからが、『明日に向かって撃て!』と同じ監督の手になり、しかも主演がポール・ニューマンとロバート・レッドフォードである点も同じなのだから、『チンピラ』の監督による彼らへの憧憬がいかに強かったかが分かろうというものである。
いっぽう、そうした「かけあい」による〔笑える男のツー・ショットもの〕の定石を根底から覆したのが『ブルース・ブラザーズ』であり、こちらは2人の沈黙による微妙な間合いが非常にウケる。
2人が静かに黙れば黙るほど、観ているこちらは腹を抱えて笑えるのである。
それもまた、『明日に向かって撃て!』あったればこそのアンチ・テーゼであろう。

〔笑える男のツー・ショットもの〕の祖先が『明日に向かって撃て!』のかけあい・言い争いにあるとすんどめにここまで確信させる、注目に値する作品がある。
『ガンバス』という、あまり知られていない(どうやらイギリスの)作品である。
西部を荒らしまわる2人組の銀行強盗が、あるとき「仕事」に失敗して逮捕される。
ところが折悪しく、第一次世界大戦のヨーロッパ戦線における特殊な任務につく人材を求めていた軍部は、彼ら2人を、その弱みにつけこんで抜擢。
密命をおびた彼らは、ドイツの空飛ぶ要塞〔ツェッペリン〕的な巨大軍事飛行船を相手に空中戦を展開する、というハチャメチャなストーリーなのである。
名作『素晴らしきヒコーキ野郎』よろしく、航空力学を無視した絶対に飛ぶわけのないヘンな飛行機がおびただしく出てきて、その素敵なデザインを見せつけながら大空を駆けめぐる荒唐無稽な怪作。
不気味な魅力に彩られまくった孤高のドタバタ喜劇なのだが、しかし、そんなことはどうでもよい。
この映画の最大の特徴は、主人公2名による、文字どおりひっきりなしの口論にある!
映画は2人の口論にはじまり、口論におわる。
ラスト、戦いはおわり、自由を手にした彼らは喜びに満ち、とことん口論をしながら画面から去ってゆく。
2人の口論の声はやまない。
2人の姿はもう見えないのだ。
にもかかわらず口論の声だけは聞こえ続ける。
やがて画面には、エンド・ロールが流れる。
それでも2人の口論の声は、泉のように湧き出てやまない。
結局、永遠とも思える長さでそれは延々と続くのであった。
まちがいない。
作者自身にとって、それこそが作品の最重要部分だったのだろう。
2人の人間が集えばこうまでして言い争いたいと思う、その人間の業とは、いったい何なのであろうか。

(セリフ等の引用は、すべて記憶によるもので、正確ではありません。)

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