私の「シェーンの誤謬」 その4 鬼平犯科帳
こんにちは、すんどめパターソンです。
Facebookの「シェーンの誤謬」ページに掲載中の記事をこちらに転記します。
なにぶんFacebookタイムライン中の記事ですので、用語・体裁等、その仕様になっておりますことをご了承下さい。
【私の「シェーンの誤謬」 その4 鬼平犯科帳】
みなさんお元気ですか?
すんどめパターソンです。
今日も私自身が体験した不思議な現象「シェーンの誤謬」についてご紹介しますよ。
シェーンの誤謬が何なのかをまだご存じない方は、本タイムライン一番下の投稿をまずご一読下さい。
ただ、今回のシェーンの誤謬は、その背景説明も含め、かなり複雑です。
複雑な分だけ感動も深いとカタクナに信じておりますので、どうか最後まで根気よくおつき合いください。
さて、今回はテレビ・ドラマ『鬼平犯科帳(おにへいはんかちょう)』にまつわるシェーンの誤謬をご紹介します。
が、第一の混乱を避けるため、まずここからちゃんとご説明します。
ご存知の方も多いと思いますが、この『鬼平犯科帳』は池波正太郎による小説が原作でして、実在した歴史上の人物・長谷川平蔵の活躍を描いた時代小説であります。
池波先生は原作を書きながら、もしもこの『鬼平犯科帳』が映像化または舞台化されるなら、主人公・長谷川平蔵を演じるのは松本幸四郎(当時。2018年現在からみて先々代)しかいないと思って、いわば当て役で書いたと自身、どこかで語っているのを私も読んだことがあります。
このことは、後でポイントとなってきますので覚えておいて下さい。
で、この『鬼犯』、実際に何度も映像化されました。
最初の映像化は恐らく、まさにその当て書き叶って先々代の松本幸四郎が主演を果たしたテレビ映画です。
そしてこのとき、松本幸四郎の息子の中村吉右衛門が、主人公・長谷川平蔵の息子の辰蔵を演じたのだそうです。つまり、親子で親子の役をやったわけですね。
さてそれから長い年月を経て、80年代末期。
いよいよ、私が「シェーンの誤謬」を体験した、摩訶不思議な『鬼平犯科帳』が登場します。
あの中村吉右衛門が、今度は主人公・平蔵を演じることとなったテレビ・ドラマの『鬼犯』です。
恐らく最も有名で最も人気の高い、『鬼犯』の映像作品です。
以下、私が単に『鬼平犯科帳』と言うときは、この中村吉右衛門版の『鬼平犯科帳』を指しますので、どうか混乱なく読んで下さい。
私は80年代末期当時、この新番組『鬼平犯科帳』を観ていました。
そのときの私の記憶では、最初期の各話が次のような構成でした。
第1話 時間を拡大したスペシャル版『兇剣(きょうけん)』
第2話 『暗剣白梅香(あんけんはくばいこう)』
二つ目の混乱を避けるために繰り返しますが、これはあくまで私の記憶です。
さて、その「私の」記憶の中の第1話『兇剣』は、次のようなシーンで始まります。
〈主人公・長谷川平蔵(中村吉右衛門)は京都で、亡き父親の墓参りをしている。
亡父と縁の深かった友人といっしょに、墓前でニコニコと世間話をしながらキセルをふかす平蔵のアップ映像に、ナレーションがかぶる。
「この男、長谷川平蔵。歳は40……」〉
なにしろ第1話でありますから、主人公の人となりを、ナレーターが紹介して当然なのであります。
また、新番組の1回目が時間拡大スペシャル版なのも、よくあることなわけです。
しかし、しつこいようですが、これは私の記憶です。
ちなみに、(私の記憶上の)第2話である『暗剣白梅香』は、これはもう第2話なわけですから、主人公の人となりもとっくに視聴者に伝わっており、ごくふつうの連続ドラマの中の、とある回というふうに始まり、ごくふつうに終わるわけです。
(なお、テレビ・ドラマ『鬼平犯科帳』は、基本的に1話完結ものです。)
さて、ご説明が長くなりました。
ここまで背景をお話ししておいて、ようやくシェーンの誤謬についてご報告できます。
実は私、のちにこの『鬼平犯科帳』のDVD完全版などが販売されている広告を見るにつけ、
「あれ……?」
と思うことがしばしばありました。
なぜなら、そういった広告の目録では、必ず第1話が『暗剣白梅香』になっていたからです。
おかしいな、第1話は『兇剣』のはずなのに……。
そんなひっかかりを胸に、ずいぶん長い年月を経まして、ついにあるとき、私もDVDを借りてきて、『鬼犯』を第1話から再観賞しました。
すると、どうでしょう。
たしかに第1話は、『暗剣白梅香』で間違っていないのです。
そして、私がずっと第1話だと思っていた『兇剣』は、これは第1話でもなんでもなく、第10話くらいの勢いです。
むろん、それだけなら特にどうというほどの驚きもありません。
テレビ放映時と、DVD版で構成が違うということは、あり得るでしょう。
いやいや、とんでもない話です。
それどころか、たしかに作品の中身をよく観ているうちに、なるほどテレビ放映時においても第1話が『暗剣白梅香』で、スペシャル版『兇剣』はシーズンの途中であったという正しい記憶が、おぼろげながらよみがえって来ました。
では、これで解決でしょうか?
いえ、決してそうでないことは、みなさんとうにお気づきですね?
そう。
ナレーションです。
私が第1話だと記憶していた『兇剣』の、あのナレーション、
「この男、長谷川平蔵。歳は40……」
というのは、第1話だからこそ成立するものです。
だってそうではありませんか。
第2話以降で、今さら分かりきった主人公の横顔を紹介しても遅すぎるわけです。
第10話くらいに位置する『兇剣』で、そんな遅すぎるナレーションをするのはおかしい。
そう思って私は、ドキドキしながら『兇剣』のDVDをも観ました。
すると、ああ何ということでしょう。
あのナレーションは主人公・長谷川平蔵に関するものではなく、いっしょに墓参りをしていた友人(演じる俳優は井川比佐志)について、
「いかにも実直そうなこの男、歳は40で……」
のように(これも正確な引用ではありませんのであしからず)紹介するものだったのです!
とっくに周知の主人公をいまさら紹介する間抜けなナレーションでは(当然のことながら)なかったのです。
そうすると、みなさんには自然なひとつの疑問が生まれませんか?
そう。
では本当の第1話である『暗剣白梅香』の冒頭に近い部分では、いったいどんなナレーションが流れたのか?
という疑問です。
第1話である以上、やはり何らかの、主人公・長谷川平蔵のごくごく基本的な情報を説明するナレーションが流れたのでしょうか。
その答えは、実に意外きわまるものでした。
新番組の幕が開けるや、後々どの回でも共通して流れることとなるオープニングが、第1話『暗剣白梅香』でもやはり流れ、
〈いつの世にも悪は絶えない。
そのころ徳川幕府は、火付盗賊改メという特別警察を設けていた。
兇悪な賊の群れを容赦なく取り締まるためである。
独自の機動性を与えられた、この火付盗賊改メ方の長官こそが長谷川平蔵、人呼んで鬼の平蔵である〉
とかなんとか、お定まりのナレーションが入ります。
そしてCMをはさみ、いよいよもって第1話『暗剣白梅香』の中身が始まっても、改めて主人公を説明するナレーションは流れず、またナレーションに代わるような主人公紹介の演出も、驚くなかれ一切ありません!
まるで、そう、それこそ「第2話」以降のようなごくふつうの始まり方になっているのです!
長谷川平蔵のことなど、もうとっくにみなさんご存知ですね?とでも言いたげなノリで始まっちゃうのです。
いやそれどころか、平蔵を取り巻くさまざまの基本的な人間関係についても、何の説明もなくお話はスタートしちゃいます。
くり返しになりますが、まるで以前から放映されてきた連続ドラマの途中の回のように平然と演出されているのです。
このことを、私の記憶違い「シェーンの誤謬」と照らし合わせて考えてみると、一体どういうことになるでしょうか。
そもそも私が、この『鬼犯』を好き過ぎる、ということが鍵を握っているように思われてなりません。
というのも『鬼犯』は、かつて父親の松本幸四郎が演じた主人公を、そのとき主人公の息子を演じた中村吉右衛門が、今度は父の「後を継いで」演じることとなり颯爽とお茶の間へ登場した、恐らく「待望の」ドラマでした。
その第1話ならば、それ相当のファン・サービスをしたに違いない……
と、『鬼犯』を好き過ぎる私はこのように無意識下で考えたのかも知れません。
すなわち、長谷川平蔵が父の墓前でニコニコと楽しそうにしている姿をいきなり見せることによって、あたかも中村吉右衛門自身が父親の松本幸四郎を懐かしんでいるような演出をし、
「かつて辰蔵を演じた中村吉右衛門、このたび父の後を継ぎ、平蔵役でみなさまの前に戻って参りました!」
とでも言うような、襲名披露にも似たファンへの「ごあいさつ」をしたのではないか。
そういう期待が私の中にあったであろうことは、他ならぬ私自身が、かなり確信を持って言えます。
こうした演出の手法を、ちょっと他の例で見てみたいと思います。
『旗本退屈男』は、むかし市川歌右衛門が主演し、その後リメイクされて息子の北大路欣也が主演した作品です。
この俳優親子は本当にソックリで、しかもリメイク版では、かつてお父さんが着た高額の衣装をそのまま息子が着たことでも話題になりました(と、私は記憶しています。とにかく「シェーンの誤謬」の話題は、常に記憶です)。
さてその北大路欣也版の『旗本退屈男』の第1話では、主人公が出会った老人(丹波哲郎)が、たまたま主人公の亡き父親を知る人で、
「その大きなるマナコ。
文化文政の御代にあって元禄のころを思わせしその派手なるいでたち。
いやあ、似ておる……」
というような意味のことを言って、深々と溜息をつくのです。
また主人公自身も、
「おお、親父殿をご存じか!」
みたいなノリで、とっても嬉しそう。
まさにこの瞬間、主人公は主人公でなく、北大路欣也その人に戻り、市川歌右衛門の後を継いだ「2代目」退屈男になりきっているのです。
設定上は同一人物なのに、まるで「2代目主人公」ででもあるかのような、このような演出をわざわざ入れた意図は、明らかですね。
そう、ファン・サービスであり、ファンへの「ごあいさつ」です。
『鬼平犯科帳』も、こうした演出意図によるファン・サービスを入れたのだと、私は長年のうちに記憶違いをしてしまったのでしょう。
私がファン・サービスを期待するあまり、主人公の友人を紹介したナレーションは、主人公その人を紹介するナレーションに私の脳内で変貌。
さらには、京都でお父さんのお墓に詣でるそのシーンこそが「第1話」の「ごあいさつ」的演出にふさわしい、と勝手に決めつける私の脳は、本当は第10話くらいのその回を、実に都合よく「第1話」まで持ってきちゃいました。
ましてほんものの第1話は、ろくに主人公の紹介もなく、特段のファン・サービスもない第1話でした。
そうした第1話らしくない第1話を、私の脳が勝手に「第2話」にしてしまう、というのも、いかにもありそうなことではありませんか。
ここで第三の混乱を防ぐための、念には念を入れた補足ですが、このような第1話らしくない第1話という演出は、決しておかしなものではなく、少数派ながらも確実に存在する確立された手法だと私は思っています。
たとえばイギリスのテレビ・ドラマ『名探偵ポワロ』も、第1話で主人公エルキュール・ポワロについていちいちくどくどと紹介しません。
紹介なんかしなくても、みなさんこの人が主人公たる名探偵であることは当然お分かりですね?とでも言いたげな、実に堂々たる開き直りっぷりなのです。
こうした開き直った脚本は、視聴者に対する信頼感を作り手側が逆説的に表明する、逆説的なファン・サービスなのかも知れませんね。
……われわれは、お茶の間のみなさんを全面的に信頼しています。
みなさんの深い読解力と豊かな想像力を、みじんも疑っていません。
だから、いくら第1話だからといって、主人公の人となりをくどくどと説明するような、そんな失礼なことはしません。
そんなことをしたら、かえってお茶の間のみなさんをバカにしたことになるからです。……
これって、ある意味では至上のファン・サービスではないでしょうか。
まして、『鬼犯』の場合はオープニングで毎回おなじみの簡潔な「紹介」をしています。
だったらそれでいいじゃん、第1話に関しても毎回と同じその紹介で用は済むじゃん、という演出意図は、全然おかしくないどころか、むしろ極めてまっとうなものだと私も思います。
それだけに。
それだけに、です。
こうまで視聴者に全幅の信頼を置くドラマだからこそ、私の場合のようなシェーンの誤謬もまた、起きやすかったのではないか、と思うのです。
というのも、ここまで事実関係を確認し、自分で分析を加えてもなお、私は私の記憶の中の架空のファン・サービスが、まったく不自然なものには思われず、非常に自然な、とても素直なものにしか思われないからです。
だって、考えてもみて下さい。
中村吉右衛門のお父さんの松本幸四郎は、原作者自身が公認する長谷川平蔵の当て役者でした。
また中村吉右衛門自身は、若いころに長谷川平蔵の息子の辰蔵を演じ、父親と親子役で共演した人でした。
ファンも作り手側も、こうした思い出を共有しているわけです。
その吉右衛門が年齢を重ね、ついに平蔵役をやるようになった。
そのときの、往年のファンの喜びは、また作り手側の気合いは、いかばかりでしたでしょう。
まさに「待望の」作品。
その「待望」感の大きさからいって、平蔵が亡父の墓参りをするシーンを撮る時、役者や演出家の中に、亡き松本幸四郎をしのぶ気持ちがあっても不思議はないわけです。
ということは、ちょっと飛躍した考え方をすれば、そうした墓参りシーンを第1話のかなり初期に移動し、世代交代のごあいさつに代えるという手法にも、一定の合理性があったはずです。
そういうアイディアも出たのでは?とさえ想像したくなります。
さらにつけ加えますと、80年代末、初めて『鬼犯』を観た当時の私は、まだ松本幸四郎も池波正太郎も知りませんでした。
その私の、その当時の記憶において、このようなシェーンの誤謬が起こったのは、極めて興味深いことではありませんか。
現時点での、私の「シェーンの誤謬」の定義は、
シェーンの誤謬:人々の記憶の中で物語が変質していく現象。えてして、物語がより合理化され、つじつまが合っていく傾向にある。
というものです。
視聴者をとても大切に考える作品だからこそ、そうしたファン・サービスもしたに違いないと私が思い込んでしまい、私の中で『鬼犯』のファン・サービスがより『鬼犯』らしく完成した、つまりより合理化されたのではないでしょうか。
百歩譲ってそのほうが「より」合理的とは言わないまでも、それはそれで極めて合理性を持ち、自然であることは、争う余地がないでしょう。
ファン・サービスへの期待に起因する演出上の勘違いが、単に演出上の勘違いにとどまらず、ストーリー構成上の勘違い・記憶違いにまで化けきった――。
自然性と合理性を求める人間の記憶のはたらきが持つ、この大胆さ、自由さ。
これこそが、私が「シェーンの誤謬」を追い求めてやまない、最強の動機なのです。
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