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和を以て貴しと為す。せめてこどもたち3人の話くらいは聞き分ける能力がほしい。
聖徳太子といえば、一万円札の肖像。なんだか好きだったな。10人の話しを聞き分ける。うらやましい。
そして、「和を以て貴しと為す」ではじまる十七条の憲法。
夫は常々、こう言っている。
「『聖徳太子以来”和を以て貴しと為す”という考え方を元に、他者を攻撃したり自分ばかり突出したりしないように振る舞う全体主義的な文化が、良くも悪くも日本には根付いている』といった話をよく耳にするけど、『和を以て貴しと為す』って本来そういう意味じゃないと思うんだよね。」
「むしろ、全体の調和とそれに向けた自分の役割を考えて、自分が持っている力を最大限発揮する、ってことなんじゃないかな。」
「例えば白血球は何かに感染した自分の細胞をやっつけちゃうけど、その働きがなければ体の調和は保てないし、それぞれの細胞は他に真似のできない特有の能力を持って働いてるからこそ、体全体の健康は保たれるわけでしょ。」
夫は鍼灸師なので、身体のことにたとえて話をする。自分の身体に置き換えて考えると、他人事にならないのが不思議だ。
〈和を以て貴しと為す〉の解釈の仕方を調べてみると、大抵は〈和を何よりも大切にし、争わず、仲良くしなさい〉というようなことが書かれている。学校などで言われることが多い〈みんな なかよく〉〈ともだち100にんできるかな〉などもここから来ているのかもしれない。
五味太郎さんの著書に「勉強しなければ だいじょうぶ」という本がある。
読む度に、心の中で何度もガッツポーズしてしまう本だ。
その中で、「クマが主人公のお話があって、【そんな時のクマの気持ちを考えてみましょう】なんて言われて、【わたし、クマじゃないからわかんない・・・】と素直に答えたAちゃんの答えは無視されます。そこで期待されるのは先生にもわかる答えです。」と書かれている部分がある。
うん、わかんないよね。そりゃ。
長男が一年生の時、一緒に学校に登校し授業を受けたことがあった。休み時間になると、先生が、「ひとりでいるお友だちがいたら、寂しいから、一緒にあそぼうって声をかけてあげてね!」と笑顔で言った。ひとりでいる子=さみしい子という図式はこんな風にちょとづつ作られるのかもな~と眺めていたことがあった。
帰宅した長男は、「あのさ~ひとりで居たいときだってあるとおもうんだよね。ひとりでいても、別に寂しくないんだから放っておいてほしい。」とつぶやいていた。ひとりでいる子のその時の気持ちはその子にしかわからない。
そして、そもそも「さみしい」は悪くも、可哀想でもないと思う。可哀想になるとしたら、周囲の視線が「ひとりは可哀想だ」と思わせるのだと思う。
「周りに合わせなくてはならない」よりも、「一緒にあそぶ?」「あ、今はひとりでいたいから~。」「あ、そうなんだね。じゃ、また誘うわ!」って感じになったらいいのにな。
お互いが違うということが前提で話し合ったり、協力できるか。私の身体の中でも、日々、細胞たちはそれぞれの個性と力を発揮し、協力し合って、私を生かしてくれているわけだ。ありがたい。
父が「和を以て貴しと為す」について、話す傍らで、長男がレゴのマンモスを動かしながら、「オレ、和を大切にするマンモス!和風セットひとつ!」と叫んでいた。
あ、そっちの「和」ね。
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