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漫画みたいな毎日。「肩書の向こう側を感じたい。」
皆さんは、「肩書き」をお持ちだろうか?
私はこの所、「肩書きとは、なにか?」を考えている。
そもそも、肩書きとは何なのか?と思い調べてみた。
かた‐がき【肩書(き)】
読み方:かたがき
[名](スル)
1 名刺や印刷物などで、氏名の上部や右肩に官位・職名などを添えて書くこと。また、その官位・職名など。「番地官名など細かに—して」〈蘆花・不如帰〉
2 その人を特徴づける社会的な地位・称号など。「—がものをいう」
3 前科。悪名。
調べたら一緒に出てきた例文が、なんだか面白い。
「肩書」の例文・使い方・用例・文例
・彼らは私を博士という肩書きで呼んだ。
・肩書きが偉くても地位が高いとは限らない。
・あの会社はみんなお偉いさんの肩書きばかりで、船頭多くて船進まずだ。
・堂々たる肩書き。
・肩書きのある人
・肩書きだけの会社の社長
・日本ではしばしば実力よりも肩書きが物を言う
・今では肩書きよりも実力が重んじられる.
・仰々しい肩書
・彼女は博士という肩書に惚れて嫁に行ったのだ
・世間では肩書きよりも実力を重んずるようになった
・肩書きくらいに驚かない
下線が、微妙な位置で途切れていて気になる。
「肩書があると、わかりやすくて、便利なんだと思うよ。安心感にも繋がるから。」と夫が言う。
ふむふむ。それもわかる。
この人は、何をしている人なのか、何を仕事、生業にしているのか、ということがわかる。
何の資格を持っているとか、何を得意しているのか、何を広めようとしているか、何を売ろうとしているのか、ということがわかる。
そして、私はいつも思うのだ。
それで?と。
最近、周囲で「肩書」をたくさん持つ人が増えたな、と感じている。
正直に言えば、私は、肩書に魅力を感じない。〈へぇ、そうなんだ。〉と思うくらいだ。
資格やその肩書を有する為に、時間とエネルギーを費やし、経験を重ねている方々に対して、そこまでの様々な努力を素晴らしいと思っている。
資格がないと成り立たない仕事もたくさんある。例えば、夫は、鍼灸師として仕事をするためには、資格が必要だ。医師や看護師や保育士として働くにも、資格が必要である。
どのような資格でも、どのような講座を受けるにしても、どんな人でも、肩書を得るために多くの時間とエネルギーを使っているのだと思う。それそのものは、根気と決意と努力が必要なことだと思うのだ。
しかし、一方で、溢れる肩書にげんなりしている自分がいる。
昨日まで普通の顔をして会話していた人たちが、急に様々な肩書を付け始める。
私の心がザワっと波立つのを感じる。
〈はぁ?なんじゃそりゃぁぁぁ?!〉と脳内のヤンキーが言い出したり、〈ギョギョギョ!おギョロきです!〉と脳内のさかなクンが驚いたりしてしまうのだ。脳内の古舘伊知郎の早口でも解説が間に合わない。
そして、その〈肩書そのもの〉が心をざわつかせるわけではないのだということを、私は知っている。
肩書の奥にある何かに心をざわつかせているのだ。
私は、肩書の奥にある〈意図〉や〈隠れた本心〉にいつも目を向けてしまう癖がある。気が付かないまま平穏にやり過ごしてしまっても良いはずの事に対しても、無意識に目を凝らしてしまうので、自分を生きづらくさせている癖でもあると認識している。
その肩書とあなたの生き方は、同一線上ですか。
その肩書は、必要ですか。
私にとって、肩書は、それ以上でも以下でもない。
その肩書の向こう側にみえる「あなた」を感じたい、知りたい。
あなたの生き方と方向性が違う、あなたにそぐわない肩書きは、あなたを見るのに、邪魔になる。
そのままのあなたを見る目を、遮ってしまう。
私の目は、自分の意志とは関係なく、一番奥の〈あなた〉から視線を逸らすことを許さないのだ。
この記事を書こうと頭の中で整理してながら、やわらかっこいいうさぎさんnoterである、ぽかさんの記事を思い出していた。
ぽかさんは、母や妻や嫁という肩書きを持ちつつ、時にはその肩書きを外し、ネットの世界では、その肩書から開放され、ただの〈ぽかさん〉なのである。
しかし、私は、ぽかさんが、母や妻や嫁という肩書きを担っていたとしても、肩書きの向こう側に居る、〈ぽかさん〉を感じているのだと思う。勝手にそう思っているだけかもしれないが、そう感じているのだ。
ぽかさん、勝手な思い込みだったらスミマセン。
ぽかさんは、もちろん、私がフォローさせて頂いてる&フォローしてくださっているnoterの皆さんも様々な肩書をお持ちだろう。
それを踏まえつつも、じっくりと皆さんの記事を読ませていただき、考え、感じ、思いを巡らせてみると、私は、やり取りさせていただいているnoterさんたちの肩書に対して、何の違和感も感じていないことに気が付く。
noteを通じて「肩書の向こう側」を感じられる方々と関わらせていただいているのだなぁ・・・。ありがたいことだなぁ・・・。と思っている。
皆さん、本当にありがとうございます。
肩書を超え、「私」として、noteの向こう側に居てくれる。その様な信頼感を皆さんに抱いている。これには根拠などないのだが、皆さんが、「私」として、そこに居てくださるから、私がnoteで自分の言葉を記すことを恐れずにいられるのだと思う。
「私に肩書をつけるとしたらなんだろう?」と夫と子どもたちに聞いてみた。
長男→「元保育士の野生のカバ。」・・・そのまんまだな。
二男→「え~?う~ん、思いつかない・・・。」・・・特色がないのか?
末娘→「お母さんは、お母さん!」・・・ハイ、その通り!あなたにとってそれ以外の何者でもないのだよね。
夫→「育成介入指導士。」・・・それってどういう感じですか?!と突っ込んでしまった。
〈育成介入指導士〉とは、子どもを育てると称して変に介入し、子どもが育つのを邪魔する大人たちを
バッサバッサと斬る優しく導く役割の人。
「そういうの好きでしょ?」と。
・・・あの、何か、誤解していらっしゃいませんか、とツッコミたい所だが、私のことを、しっかり把握理解している夫である。
「でも、そんなにやたらめったらと斬らないよ、斬ったら後処理が大変だから。」と夫に笑顔で返したが、それがまた怖いらしい。
私は、漫画・鋼の錬金術師の主人公の兄弟の師匠である、イズミ・カーティスが好きだ。
錬金術師としての才能を携えながらも、「通りすがりのただの主婦です。」「ただの主婦だ!」とトイレのサンダルを履いて、啖呵を切る姿に痺れる。
「ただの主婦。」という肩書もいい。
しかし、私は、イズミ・カーティスの様に錬金術に長けているわけでもなく、本当に〈ただの主婦〉だ。
結局のことろ、私は、〈何者でもない〉。
「肩書きを持つつもりもないのに、面白半分で考えてみたんだよね。」と、友人にメールをしたら、こう返ってきた。
「けいこちゃんは、無印良人だね。」
良い人ではないかもしれないが、特に印が無いというのは、何だかいいかもしれない。
私は、ただの主婦でなんの印もない人。
特に肩書のない者として、肩書きの向こう側にいる〈あなた〉に会えることを心から喜び、わくわくしている、そんな〈ただの主婦〉なのだ。
(ぽかさん、記事をシェアさせていただきました。何か不都合がございまいしたら、遠慮なくおっしゃってください!)
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