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自分の中のマイノリティとマジョリティ。
マイノリティか、マジョリティか。
私自身は、どちらでもないとも、また、どちらの要素も持ち合わせているとも言えます。そして、「マイノリティかマジョリティか」と分けることには、意味はあるのだろうか?と日々考えています。
まず、私の中に、「コレが普通である」という、自分の中に知らぬ間に刷り込まれている概念があるのです。知らないうちに、その様な感覚を確実に持ち合わせている。
それに対して「多くの人はそう思うだろう。」とか「一般的にはそうだよね。」という見方が出現する。そして、「そういう意見はあまり聞かないから少数派意見では?」と感じているのです。
きっと、誰しも、自分の基準が「普通」。
だからこそ、自分の基準と違うものを目にしたり、耳にしたりすると、驚いたり、驚きが発展して否定したくなる。
しかし、自分と他者が「全く同じ価値観」であることは、殆どないと言えると思います。
そう考えていくと、自分が思っている「普通」というものは、この世界に存在しないのではないでしょうか。
ただ、同じような(あくまで、〈同じ〉ではなく、〈同じような〉です。)意見の人が集まると、力を持ちやすいというのも、政治などからしても、顕著なことかもしれません。
「大多数意見だから、正しい。」も「少数派にこそ正義が在る。」というのも、違和感を感じます。
どちらか一方が正しい、正しくないということに、そもそも意味などないではないでしょうか。
それでも、少数派であることで、弾圧を受け、辛い思いをしてきたという史実が世界には多く存在しています。
なぜ人は、「自分の中の普通」以外の価値観を認めることが難しいのでしょうか。
ひとつ考えられるのは、自身の発言や思考を通じての自己の存在が他者の支持によって肯定されない場合、「自分の存在を認めない他者」として認識してしまい、たとえその数が少なくても、自分を脅かすのではないかという、潜在的な意識が働くということではないかと思うのです。
そして、自分の存在を脅かすという恐れから、他者に対して、排除しようとする心の動きや視線、それに伴う行動や発言へとつながる。
一方、少数とされる側は、多数とされる側から、自分たちの意見・存在が、押さえつけられるのではないか、という抑圧の恐怖を常に感じている。
知らないうちに、自分の中の「普通」という意識が、マイノリティーを抑圧し、自分の中の「少数」という意識が、マジョリティーを脅かしているのです。どこにも、抑圧も、脅威も存在していないにも関わらずです。
それは、他者に対してだけではなく、自分自身の中でも繰り返し起きていると思います。
「こう思うけど、みんなはそう言っていないから、自分の考えは間違っているかもしれない。」など、自身の感じたことを否定することはないでしょうか。
私は、そのループから抜け出すために、違和感を感じたときに、「今、感じている「普通」という概念は、どこから来ているのか?」というところに、まず向き合うことにしています。
「みんな」が言ってるから、「普通」はそうだから、
ではなく、
「私の意見は、少数派だから」
でもなく、
「私が、どう感じ、どう考えるのか」を意識することだと思っています。
自分は、どんな「普通」を持ち合わせ、どんなことに違和感を覚えるのか、自分の感情が動いた時に、それをじっと見つめてみる。
そこに、善し悪しのジャッジは必要なく、「自分は、今、そう感じている。なぜだろう?」と繰り返すだけでいい。それに対して、明確な答えを出す必要もない。
なぜ?という自分に対する問いは、ある日、突然、どこからか「あ、こういうことだったのか。」と応えのようなものが、湧いてくることもあるかもしれません。
私たちは、どんな価値観にも因われることなく、自由なのだと思います。
自分と違う意見も存在も、ジャッジせず、ただ、見つめるだけ。
世界のすべては、お互いに、「ただそこに在る」だけなのですから。
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