東北方言と韓国語の対照研究!?【ゆる文献レビュー #1】
東北方言には、オールラウンダー「た」に加えてスペシャリスト「たった」がいる! 先日公開された「ゆる言語学ラジオ」のゲスト出演回で、現代日本語の過去表現「た」を取り上げた際に、そんな話をしました。その中で触れましたが、韓国語にも「た」と「たった」によく似た-었-と-었었-という過去表現が存在します。この東北方言と韓国語の二種類の過去表現については以前、日本語学会の学会誌の論文にまとめました。
今回の記事では、こちらの論文の内容を簡単に紹介します。
東北方言と韓国語には、他にも類似した文法現象が幾つも見られ、僕はそれらについて対照研究を進めているのですが、「東北方言と韓国語の対照研究!?」と面食らった方もいらっしゃるでしょう。この論文を紹介することで、どんなことをしているのか知っていただければと思います。
「たった」と-었었-の類似点
まず、両言語の類似点から見ていきましょう。「た」/-었-と異なり、「たった」(※1)/-었었-は次のような特徴を持っています(以下、前者を「過去形1」、後者を「過去形2」と呼ぶことにします)。
①現在との断絶性
第一に、過去形2は、現在と切り離された過去の事態を表します。次の二つの例を比べてみましょう(※2)。
(1a)は過去の出来事を単に述べる場合です。一方、(1b)は配達員から受け取った荷物を家族に見せながらの発話で、過去の出来事の結果が発話時において問題になっている場合です。前者が〈過去〉、後者が〈現在完了〉(※3)を表す場合ですね。過去形1が〈過去〉〈現在完了〉の両方の場合に用いられるのに対して、過去形2は、〈現在完了〉の場合には使用できません。
また、発話現場で起こった出来事を即時的に表す場合(スポーツの実況等)も、過去形2は用いられません。この場合も、現在との断絶がない点で〈現在完了〉の一変種と考えられます。
②体験・目撃性
第二に、過去形2は、それを使用すると、過去形1を使用した場合と比べて臨場感・眼前性が感じられるため、直接体験・目撃した事態の方が表しやすいという傾向を持ちます。
この例で、過去形1が用いられた場合には、ウサギに子供が生まれたことを人から聞いた可能性もありますが、過去形2が用いられると、自分でそれを見たという解釈が強くなります。
基本的類似点と出自との関係
以上、「たった」と-었었-が基本的類似点として、①現在との断絶性、②体験・目撃性を持つことを見ました。この二つの意味特徴が生じる理由は、両形式の出自に求められます。
その話をする前に、「た」と-었-の出自について確認しておきましょう。「ゆる言語学ラジオ」のゲスト出演回でも話しましたが、「た」の語源は「たり」、さらには「てあり」に遡れます。元々の形が「て」+存在動詞だったことから、本来は、現代語の「ている」(例:髪を染めている)のように現在の状態を表したと見られます。現代語の「た」は、この用法を主節では失っていますが、連体修飾節では残していますね(例:髪を染めた人)。現在の状態のうち〈結果状態〉には、前提となる運動(変化)がありますが、「た」はそこから、先立つ運動と共に現在の結果を捉える〈完了〉(例:髪を染めた。似合ってるかな?)を経て、結果は切り捨て先立つ運動のみを捉える〈過去〉(例:学生時代に髪を染めた)を表すようになったと考えられます。このような意味の変化は、現在の状態から過去の運動へ比重を徐々に移していくことによるものと言えます。この点については、ゲスト出演回の補足記事(「僕ら3人、繋がっていた」の項)に書きましたので、よろしければご参照ください。
https://note.com/sunday_hornist/n/n393cb481f24a
韓国語の-었-も「て」に相当する-어に存在を表す잇-(있-の古形)の付いた-어 잇-が語源で、「た」と同じく、〈結果状態〉→〈完了〉→〈過去〉の順にその意味を変化させていったと考えられています。「た」と-었-が〈過去〉だけでなく〈現在完了〉も表すのは、現在の状態を表すのが本来の用法で、それを引きずっているからなんですね。
同様に、「たった」と-었었-が先に見た二つの意味特徴を持つことも、両形式の出自に起因すると考えられます。「たった」は一見、「た」の重複形のようですが、「てあった」が縮約したものと見られます。-었었-についても、-었-の重複形とする説が一般的ですが、「て」に相当する-어に存在を表す있-の過去形の付いた-어 있었-が縮約したものとする説もあります。このように、元々は「て」+存在動詞過去形に相当する構成を持っていたことから、「たった」と-었었-は、本来は日本語の標準語の「ていた」(例:電気がついていた)のように、過去のある時点において事態が継続していたこと(以下、〈過去〉の〈継続性〉)を表したと考えられます。実際、現在も、青森県津軽方言などでは〈過去〉の〈継続性〉を表す「てあった」が用いられ、韓国語でも-어 있었-が〈過去〉の〈継続性〉(ただし、後述するように〈結果継続〉のみ)を表します(例:電気が ついて あった/불이 켜져 있었다)。このように「たった」と-었었-が本来は〈過去〉の〈継続性〉を表したことと両形式の意味特徴は、どのように関わっているのでしょうか。
まず、①現在との断絶性については次のように考えられます。〈過去〉の〈継続性〉は、発話時を含む時間帯における〈現在〉の〈継続性〉と対立し、〈過去〉の一定時間において成立していた事態を表すため、発話時と繋がりを持ちえません(標準語の「していた」と「している」の違い)。先の例(1b)と同じく、配達員から受け取った荷物を家族に見せる状況で用いられる次の標準語の文を見ましょう。確かに、ここで「来ていた」を使用した場合も、荷物が目の前にないという現在との断絶性が感じられ、文脈的に不自然になりますね。
「たった」と-었었-の原形である津軽方言の「てあった」と-어 있었-についても、「来て あった」と「와 있었다」を使用した場合に、これと同様のことが言えます。「たった」/-었었-の持つ現在との断絶性は、このような〈過去〉の〈継続性〉の文脈的意味を受け継いだものと解釈されます。つまり、過去形1と過去形2はそれぞれ、現在の状態を表す「ている」、過去の状態を表す「ていた」に相当する形式を出自とするため、前者は現在と関係付けられた過去、後者は現在と切り離された過去を表すということですね。
次に、②体験・目撃性について考えましょう。過去形2が過去形1と比較して臨場感・眼前性を持つ点は、〈継続性〉の出来事内部に視点を置くという特徴に基づくと見られます。出来事を遠景で眺め、ひとまとまりに捉える〈完成性〉と違い、〈継続性〉は出来事の中に分け入って過程なり結果なり、その一段階のみを取り上げる(※4)という特徴を持ちますが(標準語の「する(した)」と「している(していた)」の違い)、そのような個別の段階は、出来事を直接体験・目撃することで初めて知ることが可能です。先の例(3)と同じ状況で用いられる次の標準語の文における「生まれていた」も、「生まれた」と比べて臨場感・眼前性を持ちますね。
同様に「たった」と-었었-の原形についても、「生まれて あった」(津軽方言)や「태어나 있었다」が「生まれた」や「태어났다」と比べて臨場感・眼前性を持ちます。このようなことから、体験・目撃性についても〈過去〉の〈継続性〉の文脈的意味を受け継いだものと解釈されます。
論文では、この他にも「たった」と-었었-の類似点を二つ挙げました。それらについても〈過去〉の〈継続性〉の文脈的意味を受け継いだものと説明できるのですが、この点は割愛します。
「たった」と-었었-の相違点
続いて、両言語の相違点を見ていきましょう。「たった」と異なり、-었었-は次のような意味を表す用法を持っています。
①〈継続性〉
「たった」は〈完成性〉(「した」の意味)のみを表し、本来の〈継続性〉(「していた」の意味)を失っています(※5)。これは、東北方言で〈継続性〉を表す場合に、「ていたった」に相当する形式(遠野方言では「てらった」)が成立していることと関係します。これに対して、-었었-は〈完成性〉だけでなく、〈継続性〉も表します。次の例をご覧ください。
-었었-は、(6)のように主体変化動詞では〈結果継続〉、(7)のように主体動作動詞では〈動作継続〉(進行)を表します。ですが、その原形と考えられる-어 있었-は、次の例のように〈結果継続〉しか表しません。〈動作継続〉を表す場合は、-고 있었-という形式が使用されます(※6)。一方、「たった」の原形である「てあった」(津軽方言)は、動詞の語彙的意味に応じて両方の意味を表します。
②〈継続性〉からの派生的意味
「たった」にはなく、-었었-だけが表す意味としては、この他に次のようなものもあります。
(a)〈過去完了〉:過去のある時点に先立つ事態を表す。
(b)〈発見〉:以前から成立していた事態に今初めて気づいたことを表す。
勘のいい方はお気づきでしょうが、これらは標準語で「ていた」によって表される意味ですね。〈過去〉の〈継続性〉の派生的意味とされるものです。遠野方言では、「たった」ではなく「てらった」によって表されます。-었었-は、①で見たように〈継続性〉の意味を持つことで、これらの意味を表しますが、「たった」は〈継続性〉を表さないため、そのような用法を持たないのだと考えられます。
「たった」と-었었-が元々は〈過去〉の〈継続性〉を表す形式で、〈過去〉の〈完成性〉を表す形式に変化したとすると、以上のような違いからどのようなことが言えるでしょうか。-었었-が〈過去〉の〈継続性〉やその派生的意味も表すのに対して、「たった」は専ら〈過去〉の〈完成性〉を表す。両形式が同様の文法化(ある語が本来の語彙的意味を希薄にし、文法的機能を担うようになる変化)の道筋を辿っているとすれば、-었었-はより古い段階の状態を維持しており、「たった」はより文法化を推し進めているということになります。
両言語の対照から見えてくること
このように、極めて類似した特徴を持つ東北方言と韓国語を対照することで、大きくかけ離れた言語同士の対照とはまた違った知見が得られます。
まず、両言語の類似点に目を向けると、過去形1のように、本来は〈現在〉の〈結果状態〉を表した形式が〈完了〉を経て〈過去〉の〈完成性〉を表すようになる事例は、様々な言語で報告されています(〈存在〉を表す語がもとになることが多い)。一方、過去形2のように、本来は〈過去〉の〈継続性〉を表した形式が〈過去〉の〈完成性〉を表すようになる事例は、珍しいと言えます。そのため、これらを対照することで、各々単独では難しかった仮説の検証が可能になり、理論的研究にも有用な事例を提供できます。
さらに、両言語のこのような過去形1と過去形2の変化は、相互に関係していると考えられます。東北方言では、「今、駅さいだよ」「(父親が在宅か聞かれて)出かけてました」のように、「いた」や「ていた」が〈現在〉の状態を表し、標準語に比べて「た」が現在に比重を置いています。韓国語でも、「店の前に桃が並んでいる」のように〈現在〉の〈結果状態〉を表す場合や「まだその本を買っていない」のように〈現在完了〉の否定を表す場合に、「진열됐다」「안 샀다」という「並んだ」「買わなかった」に相当する形が用いられます。やはり-었-が現在に比重を置いていると言えますね。東北方言と韓国語では、このように過去形1の意味が現在に寄っていることと関係して、現在との断絶性を表し、〈過去〉を明示できる過去形2が成立したと見られます。
また、両言語の相違点に目を向けると、過去形2については前項で見たように、-었었-は〈過去〉の〈継続性〉やその派生的意味を表し、「たった」より古い段階の状態を維持していました。過去形1についても、-었-は上記のように、日本語で「ている」が用いられる〈現在〉の〈結果状態〉や〈現在完了〉の否定を表す場合に用いられます。この点で、-었-は東北方言の「た」よりさらに意味が現在寄りで、古い段階の状態を維持していると言えます。
以上のことから、東北方言と韓国語の過去表現について、次の二つの特徴が指摘できます。
二種類の形式によって、現在と関係付けられた事態、現在と切り離された事態を形態的に表し分けている。
二種類の形式のどちらについても、韓国語の方が東北方言より文法化における古い段階の状態を維持している。
ちなみに両言語では、〈未来〉と関わる推量表現にも鏡像的な形で、1,2の特徴が見られます。両言語の種々の文法項目について対照研究を進めていくことで、それらに通底する原理を明らかにできると考えています。
いかがだったでしょうか。論文では、さらに東北方言と韓国語の回想表現を取り上げ(東北方言では、古典語の「けり」に由来する「け」が標準語にはない用法を持ち、韓国語にもそれに酷似した用法を持つ形式があります)、過去形2との異同を考察したのですが、長くなるので、ここまでにします。興味のある方は、論文がオープンアクセスになっているので、お読みいただければと思います。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihongonokenkyu/4/4/4_KJ00005586584/_article/-char/ja/
【ゆる文献レビュー】、今回はセルフレビューでしたが、そのうち、読んで面白かった論文についても書きたいと考えています。どうぞお楽しみに!
注
※1:「たった」は、東北地方全域で使われているわけではない。主に太平洋側の青森県東部・岩手県(旧南部藩領)から福島県にかけて、さらに秋田県、山形県内陸部、北関東などにも分布。論文の東北方言の記述は基本的に、高田が調査研究を行ってきた岩手県遠野方言について行っている。
※2:例文は、東北方言と韓国語の対応する文を併記する(東北方言も、基本的に韓国語と同様の形で分かち書きする)。東北方言は理解の便を考え、述部のみを方言形で、他の部分は標準語で示す。韓国語は、論文ではYale式ローマ字で表記したが、本記事ではハングルで表記する。
※3:論文では〈現在パーフェクト〉としたが、本記事では〈パーフェクト〉の代わりに〈完了〉を用いる。
※4:標準語の「ている」は、主体の動作を表す動詞の場合はその過程を捉えて〈動作継続〉を表し(例:鳥が飛んでいる)、主体の変化を表す動詞の場合はその結果を捉えて〈結果継続〉を表す(例:窓が開いている)。
※5:ただし、秋田県の方言などでは、「てあった」が本来の意味を保持したまま縮約しており、「たった」が〈完成性〉ではなく〈継続性〉を表す。このような方言では、「ていたった」に相当する形式が成立していない。
※6:-고も-어と同様、「て」に相当する連結語尾。韓国語では「ている」に相当する表現として、-고と-어のそれぞれに存在を表す있-の付いた二種類の形式を用い、〈動作継続〉と〈結果継続〉を表し分けている。