「〜じゃないけど」と冒頭で否定をしてから最後は結局肯定文な保守イズム
「有言実行じゃないですけど、一度言ったことはやり遂げ遂げたいんです」
「人の役に立てたらじゃないですけど、人から感謝されるれる事をしたいと思ってます」
「自慢じゃないけど、僕が君ぐらいの歳には部下のマネジメントをしてチームを束ねていた」
〜じゃないと一度は否定しているものの、結局〜であるって事だよね?
と思ってしまう事は会話の中で誰しもが一度は言われた若しくは言った経験があると思う。
僕も1回だけこの言い回しを使った事がある。
それは「言葉の綾」という単語を覚えて、僕は単語は使って覚えてきたので、いつも通り会話の中で使えそうなタイミングを見計らって使ってみた。
「言葉の綾じゃないですが、軽率に発した言葉が想像してたよりも相手の気に触ってしまったようです」みたいな事を言った。
相手とは仕事のクライアントの事でクライアントの気に触ってしまっているような事態が起きている時に上司への報告で覚えたてのフレーズを使おうとしている僕も中々やばいが、この否定→肯定で締めくくる言い回しも結構やばいと発言しながら感じた。
気持ち悪いという訳ではないけど、なんか遠回しに聞こえるというか自分が発する言葉全てに責任を持たないでいようとする言い回しが苦手なのだ。
気付いたであろうか、敢えて今使ってみたがやっぱり気持ち悪い。「言い回しが苦手だ」と柔らかく簡潔させたが結論は類義語を並べているだけの言葉選びに過ぎない。
つまりこれは話し相手に対して自分はこう見られていたいという世間体を気にする表れなのであると思っている。
例えば冒頭で挙げた3つの事例でいうと、
本来は「有言実行」をしたいがどこか自信がないからかインパクトのあるこのワードは避けて、ワードの意味をとりあえず述べて軽いニュアンスで伝えようという魂胆だ。
人の役に立ちたいだなんて大それた事を発言するのは恥ずかしいから、感謝されたいという表現に留めている。
凄いと思われたいけど自伝を語るのはいけてないとも思いながら出てしまった、謂わば承認欲求のダダ漏れ。
これを僕は保守イズムと捉えている。
相手の事を考えて話をする事は大切だが、相手や世間体など自分の見られ方を気にして話をする事はダサい。
自分の発する言葉には責任と誇りを持って余計な言い回しをせずに言い切ろう。保守イズムが染み付いてしまう前に。
写真はスターバックス。スタバを成長させて実業家ハワードシュルツの名言を1つ載せておく。
我々はコーヒーを売る為に商売をしているのではない。人々を喜ばせたいと思い、手段としてコーヒーを扱っているのだ。