感動よりも、言語が先に立つ。獣になれない私たち。
ASD(自閉スペクトラム症)当事者の個人的な感覚の話です。
ASD…特に言語IQ凸のASDは「目の前のイベントを実感する力が弱いんじゃないか」と最近考えています。そういう話を書きます。
明けましておめでとうございます。
お正月といえば、初日の出ですよね。
例えばなんですけど、私が初日の出を観に行くとするじゃないですか。
周囲が少しずつ明るくなって、水平線の向こう側から太陽が現れる光景。
眼の前にするとみんな「ウワァ」なんて声を上げて感動を表現したりするわけです。
しかしながらASDはこういう時、周りの感動する様子が全て他人事のようで、疎外感を感じてしまっていたりします。
そんなことを考えているうちにいつの間にか初日の出は昇りきって、皆「帰ってもう一眠りするかぁ」とか言いながら帰路につき始めてる。
いつも通りの朝が始まる。
感覚よりも、言葉が先行するのだ。
眼前の出来事を、言葉以外の枠組みで捉えることが難しいというのか。
時間軸的には、「光が見える」とか「暖かくなってきた」とか五感の方が先に反応しているはずなのに、それを捉えるのが言語なのだ。
言語の外側で何かを捉えるということを、意識して行おうとしないと出来ない。
もしくは、意識しても出来ない。
三島由紀夫がどうやらそういう人だったらしくて、精神科医曰くこれは「幼少期に自我を抑圧されたため」だと本に書いてあった。
支配的な祖母に世話をされている幼少期に自我を抑圧した結果、眼の前のことに感動すること…「実感」が出来なくなった。
しかし彼は生まれ持った言語の才能で、それらしく感動を捉えている素振りはできた。
人を驚かせるような美しい詩を書けたが、彼の心に感動という実感は無かった。
彼は服装など外見も派手で、笑い方も豪快だったが、それは仮面だったんじゃないかと。
三島由紀夫と私は同じだ!なんておこがましいことを言いたいのではない。
私がその本を読んだ時に思ったのは
「華族生まれの自我の抑圧とかそんなややこしい事じゃないのではないか。
一般家庭でのんびり育った私がそうみたいに、ただただ生まれつき眼の前の出来事を実感する機能が欠けているというだけでは?」
だった。
私は物語や絵画など、情報量が適切に調整された作品には深く感動することができる。
ただ、眼の前のややこしいありのままの現実に感動することはとても困難だと感じている。
もしかすると「現実の情報量が多過ぎて、私の受容体では受け止めきれない。だから呆然とするしかない」というのが真相なのかもしれないな…とも思う。
このあたり、ASDの人なら共感してくれたりするだろうか?
数年前に「獣になれない私たち」というテレビドラマがあった。
タイトルが秀逸だなと思う。
世の中の人は皆、「やりたいことをやっている獣」のように思える。そんな体感のあるタイトル。
やりたいことをやりなさいとか、心の声を聞けとか言われても困ってしまう感覚がまさにそんな感じなのだ。
男の人に欲情されて肩を抱かれた時の、居たたまれない気持ちにも似ている。
※ドラマの主人公は周りの希望に自分を合わせてしまうタイプだ…という物語なので、今回の話題とは少しズレている。ただ、語感が好きだ。
獣は、言葉で世界の輪郭を掴んだりはしない。
私は、獣になりたい。