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「性欲+親愛=恋愛」が理解できないASD当事者の話。


こちらの記事に対してコメントを頂いて、改めて性欲と親愛の関係性について考えさせられたので、返信と共に新しい記事にしてみます。

性欲と恋愛感情の違いが分からないってことをあまり誰も口にしないのが怖い。
皆、疑問を感じつつも見て見ぬふりをしているのか、それとも疑問に思ったことがないのか。
当たり前からわざわざ口にするのは野暮なので黙っているのか。

ASDの見ている苦しみ(上記note)より

コメントありがとうございます。

私は相手の気持ちを理解する能力が低いことを自覚しているためなのか、難易度の高い恋愛の場面においては特に、相手の向けてくる気持ちがどういった種類のものなのかを測りかねて恐ろしく感じてしまいます。

私の中には「親愛」という感覚がはっきりと存在していても、それは血の繋がった家族に一切欲情しないのと同じぐらいのレベルで性欲を伴いません。

ただ、相手はそうとは限らない。同性相手だと「あくまで統計、確率論的に」性的な対象にされることが少ないし、力も弱いですから警戒しないのですが、男性はそうも行きません。
私が性的な目で相手を見てないのだから、相手も私をそういう目では見ていないだろうと考えて行動すると、おそらく危険です。
ASD女性が性被害に遭いやすいというのも個人的感覚として納得が行きます。

また、私の悩みの一番の本質は以下のような物です。
私は性欲が無い、分からないというわけではなく、「親愛と性欲は全く別の概念であり、混ざるという人が居るのが不思議」なのです。
性的な対象に対して親愛を感じたことはありません。親愛を感じる相手を性的な目で見ることもありません。

こういう悩みを人に相談すると返ってくる定型文に「いつか分かる日が来るよ」とか「まだ運命の人に出会ってないんだね」などがあります。

こういう定型文が返ってきたり、恋愛映画で「恋を知ることが人間的成長で、喜びである」というような演出が成されている時に感じる、多数派の人たちの無邪気さと疑いの無さが怖いです。

心理カウンセラーに相談して、鼻で笑われたこともあります。

唯一、ちゃんと話を聞いてくれたのが、コミュ力修行に立ち寄ったバーで出会ったお坊さんでした。

その人は、「僕は親愛と性欲を同時に感じる時は強い喜びがある。」とかなりあけすけに、個人的な感覚を話してくださいました。

そして「でもそれは僕の感覚。あなたはそのままでいい」と、続けて仰いました。
この言葉は私にとって、混乱した際の指針になっています。

「恋愛」という言葉に曖昧性を感じず、疑いを持たずに過ごせる人たちは、単に多数派なだけ…そう頭では分かっているつもりではあります。

コメント頂いた、「正しいものは無い」というのはおっしゃる通りですね。

上記はかなり感情的に書き殴ったnoteでしたので、少し気恥ずかしいです。平静時は今こうやって書いているように理屈で考えられても、人と交流するとたびたび混乱して感情の波に飲まれることがあります。

私はキリスト教の知識も無いため、教義に反する失礼な事を書いていたら大変申し訳ないのですが、ASDのこの世には必ず答えがあるはずだと言う感覚は、唯一神的なものを信じる感覚と似ていたりするのでしょうか。

科学が人間に知覚できる世界にある程度答えを出してしまった世界で、それでもなお残る「答えの無いこと」「曖昧なこと」に対し、神聖というフィールドで答えを貰えるという感覚…だとするならば、それは私にとって、日本的な幽玄の美を楽しむときですかね。

「曖昧だというそれ自体が美しい」としてしまうことで、「答えがない問題、抱えている納得のできなさを、半ば暴力的に解決してしまう」と言いますか。それ自体が私の超個人的な宗教感覚かもしれません。

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