「ウルトラマンという力」の責任 ULTRAMAN Season3感想
ネタバレありです。
思いつきの駄文なのでそれでも良ければ。
ご存知ない方はNetflixで観れます。
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色々思うところはありましたが、面白かったですね。
粗筋を簡単に浚ってみたいと思います。
粗筋
ゼットン星人(星団評議会?)の目的は、地球を評議会に迎える準備としてのウルトラマン信仰の根絶であり、そのために最初から科特隊と色々してきていたと。
内政干渉もいいところですね。まあ現実でも同じようなことはザラに起きていますが。
今回のSeasonではその計画の大詰めとして、正義としてのウルトラマンの力の裏側である暴力性をむき出しにすることで、それまで称えられてきた大衆からの評価を一気に覆します。
進次郎もまた制御できない自分の力と父を失ったことに戸惑い、拗らせながら暴走してしまいます。
しかしその中で出会った人々(レナや嵐、病院の看護婦さん)との関わりの中で、自身への迷いにひとつの答えを見出しました。
それはずっと、自分のままでいること。
何故、自分はウルトラマンになったのか。
自分がウルトラマンになれると知った時、それは必ずしも強制ではなかった。
それでもウルトラマンになることを選び、そして戦い続けることを選んだ時。
その時自分を動かしたものはなんだったのか。
傷つけられるかもしれないし、傷つけてしまうかもしれない。
それでも戦うことを選んだのは、誰かを守りたかったから。
守ることができる力があるならば、守りたいと願ったから。
傷つけられること、傷つけることを恐れる自分には、そもそも守るという立場に立てない。
最初に願った守りたいという立場に、改めて進次郎は立ち返ります。
そして地球に転送されたゼットンに対して、進次郎はレナと共に立ち向かいます。
しかしゼットンの力は強大で、進次郎はなす術なくタコ殴りにされます。
そんな状況にも市民はゼットンを応援する者すらいる始末。
あまりにもあからさまな態度に辟易としてしまいますが、実際現実でも大衆の態度とはこういったものですよね......。
進次郎は万事休すかと思いきや、仲間のウルトラマンたちが駆けつけてからはわりとあっさりゼットンを倒します。
しかしゼットン星人が現れ進次郎とタイマン、仲間たちも立ち上がったゼットンと再戦。
進次郎はゼットン星人に文字通りタコ殴りにされ、光線に胸を貫かれて息絶えます(と思っています)。
しかし守るべき市民たちがウルトラマンを応援し、その声に蘇ります。
進次郎でも光の巨人でもなく、「ウルトラマン」として。
覚醒したウルトラマンは圧倒的な力でゼットン星人を葬り、地球に一応の平穏が取り戻されました。
かなりざっくりまとめるとこういう感じでしょうか(最終話に大分寄ってしまいましたが)。
感想
ウルトラマンという力への責任
全体として、「ウルトラマンという力への責任」がかなり重要なテーマだったのかなという印象です。
ウルトラマンという象徴的な存在に対する集中的な賞賛は、もはや彼を神格化してしまうレベルにまで祭り上げてしまいます。
しかしあくまでウルトラマンも個人でしかなく、人格という不安定さからは逃れることができません。
それに対してあまりにも無謬性を疑わない大衆の姿勢である「ウルトラマン信仰」は、ウルトラマン自身の持つ、世界を破壊してしまう力に目を逸らし続けます。
ゼットン星人はその状態を危惧しており、その考えは容易に理解ができますし共感もします。
ウルトラマンは最後に、それでも「俺の進むべき道を探し続けるしかない」という答えを出します。
僕はこの結論に対してポジティブな印象というよりは、危うさを覚えずにはいられませんでした。
というのは、結局人類がウルトラマンに全体重を預けたままであり、そしてこれからもそのままであろうという未来がこの言葉から容易に見えてしまうからです。
しかし先に述べたように、ウルトラマンは力が強いだけの個人であり、地球という重みを受け止めるにはあまりにも脆すぎる存在だからです。
だからこそ、「俺の」ではなく「俺たちの」という発想が彼から生まれない限りはウルトラマンにとっても人類にとっても非常に不安定で歪んだ関係が続いてしまうだろうと僕は考えます。
短中期的な視点では現状のウルトラマン(進次郎)への負担という点で、長期的な視点では進次郎以降のウルトラマンという点での懸念があります。
前者は先に語った通りなので割愛します。
後者はおそらく進次郎がそうだったように、彼やレナの子供がその後を継ぐものだと想定できます。
進次郎やレナは人類に対して倫理的に振る舞おうとしますが、今後も同じような規範を持ったウルトラマンが後継者になるとは限りません。
The Boysのホームランダーのような拗らせスーパーマンになる可能性も、まどマギの美樹さやかのようにソウルジェムが濁り切ってしまう可能性も大いにあるわけです。
だから同じ知性を持ち、同じ故郷を持つ、同じ種族として、互いに手を取り合った関係性を人類から提案するべきだし(その一環が科特隊ではあるわけですが)、ウルトラマンも人類を守る使命を遂行するならばその手を取って欲しいわけです。
以前、「優しさという責任について」という記事を書きましたが、力あるものには弱者に対して責任が発生するというのが自分の立場です。
その点においてウルトラマンにはその圧倒的な力において、大衆を守る責任が発生します。
しかしそのまま「優しさという責任について」の論理を適用することができないことに書きながら気づきました。
人類は無数に存在し、ウルトラマンは片手で数えるほどの少数しか存在しないからです。
ウルトラマンは彼らを漏れなく守れるほどの強さはきっと持ち合わせていない。
だから今回のケースについては責任はウルトラマンのみではなく、人類にも適用されるべきではないか。
それが「ウルトラマンという力への責任」への一旦の自分なりの答えです。
ULTRAMANは「ウルトラマンショー」である
ということで「ウルトラマンという力への責任」というテーマで走り書きました。
今シーズン、見ていて色々なんだかなあとか思うところはありました。
戦ってるんだから市民は避難しろよとか、あれだけスペシウム光線で街破壊したのに死人いないとかゴーストタウンかいとか。
でもこの作品って、僕にとっては幼い頃に見た「ウルトラマンショー」なんですよね。
ウルトラマンショーでは死人も出ないし、市民である僕たちは避難なんてしない。
そこではウルトラマンが僕たちのためにただただ戦ってくれていて、僕たちは応援することしかできない。
それでも、僕たちはそこで優しさを学ぶ。
強いものが、弱いものを助けるのだという優しさを。
その意味で、ULTRAMANは「ウルトラマンショー」だった。
どうかULTRAMANを見たあなたが、明日から弱いものを助けるウルトラマンでありますように。
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