言葉で距離が縮むこともあれば、言葉で遠ざかることもある
SNSでなんらかの発信をしていて、ふと出会ってしまう違和感。
それが多少知っている人の発信だったりすると、なおさらその違和感を拭いさることができなくて、しまいには勝手に嫌いになっていることもある。
これは、その人の想いや考えや気づきが言語化され、変換された言葉への違和感であることが大きい。
たとえば、「自分自身を大事にしよう」と発信していたら、「けっ、ナルシシズムかよ」と感じるが、それが「自分を喜ばせたい」という表現であれば、そう考えるにいたった奥行きが感じられて好感をもつ、といったように。
でも、おそらく根底にある想いはそれほど違いがあるのでなく、表現された言葉が違うだけという気もする。
だったら、表面の言葉にとらわれる必要などなく、その言葉の裏にある想いを汲めばいいだけなのだが、そうは問屋がおろさずに、「なんか気に食わない」と、発せられた言葉が人と人を分断する。
逆に、まったく会ったこともない人の言葉に心が動き、影響され、ファンになることも少なくない。
言葉はファッションやメイクや髪型のように、自分と他者との違いを判断する基準でもあり、共通の物差しを図る道具なのだ。
ぼさぼさの髪型でノーメイクで汚れた服を着ないように、髪をとき、顔を洗い、鏡をみながらメイクしオシャレするように、言葉もただ投げ捨てるだけではいけないんだ。
もしかすると、テキストよりも動画コンテンツが流行る背景には、言葉が簡単に流通する社会になったことで、それだけで判断されないようにしたい目論見があるのかも。
言葉をつむいでいきたいからこそ、それが人と人をつなぎ、時に分断させる力を持つことを心に秘めて。