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シン・エヴァ感想文―ファンへの落とし前と「他者」の再構築

シン・エヴァを観て浮かんだのは「救い」だった。なにが救いなのかわからなかったけど、パッと浮かんだ言葉こそが直観だと思いメモを取った。

帰宅して、録画していた『プロフェッショナル』を観た。「庵野監督自身の救い」、「ファンにとってできるだけ幸福なものになる作品を作ろうとした」などを感じとれる素晴らしいドキュメンタリーだった。

エヴァは社会問題や哲学などと絡めた小難しい考察が多いので、自分は感情重視で構成とかあまり考えずに書き連ねてみたいと思う。

庵野監督のファンに対する落とし前

作中で象徴的に繰り返される「落とし前」は、庵野監督自身の言葉だと思う。エヴァという作品で、多くの人に影響を与えてしまったこと。『プロフェッショナル』でも「いろんな人の人生を変えている」という問いに、「申し訳ないともいえる」「その人にとって良かれのこともあるかもしれないけど、逆の可能性もある」と答えたことからも、エヴァが社会に与えた影響の大きさをはっきりと自覚している。

同様に、庵野監督が「終わらせること」に心血を注いでいたのも、ファンを待たせてしまった申し訳なさから来ているのではないだろうか。「ループ」や「繰り返し」に逃げず、誠実に時間の経過を描いたこともその証左だと思う。

時間の経過を感じさせるシーンとして、四半世紀にわたってショートカットをトレードマークとしてきたレイの髪がぼさぼさに伸びているのは象徴的だ。アスカが「髪だけは伸びる」とぼやいていたとおり、彼女たちは老化はしないが髪だけは伸びる。あの伸びた髪は、レイが消失することなく、初号機のなかでシンジを待ち続けていた証だ。

待っていたのはファンも同じで、チルドレンではない我々は着実に死へ向かう。エヴァの完結を待ち望みつつ、シン・エヴァにたどり着けなかったファンは少なからずいるはずだ。『シン・ゴジラ』で東日本大震災を昇華させたことから見ても、エヴァの結末を見せられなかった人がいることに思うところはあったのではないだろうか。

その点でいえば、『Air/まごころを、君に』(旧劇)を再構築していたこともファンに対する思い入れに感じた。

退廃的で嫌悪の対象のように描かれていた加治とミサトの関係も、加持リョウジという健やかな未来の象徴が生まれることで書き換えられた。

心神喪失状態のシンジをエヴァのもとへ追い立てる最中に撃たれたミサトは、自らエヴァに乗ることを志願したシンジをかばって撃たれた。

「お前ら、アニメなんかに心血を注いでないで現実に帰れ」と敵意たっぷりのメタ的な演出も、シン・エヴァでは特撮を用いてコミカルに表現された。

かつて制作遅延によって止め絵とならざる得なかったTV版末期の進行についても、あえてラフ画を映すといった演出で踏襲した。

エヴァの世界を救うには、本当に最終回を描くには、これしかなかったと思う。

恨みつらみを叩きつけた作品を拾い上げて、丁寧に供養する。これを裏切りと感じるか、救いと感じるかは、受け取り側の精神状態次第だろう。

宇多田ヒカルが主題歌を担当した幸福

僕は常々、宇多田ヒカルが主題歌を担当すると、原作を食う(原作以上に真理をついてしまう)と思っている。それだけ素晴らしい歌詞世界で、エヴァ新劇場版の世界を補完し続けてくれたのは至上の幸福だった。

エヴァの主題歌といえば「残酷な天使のテーゼ」だが、本当の意味でエヴァを表しているのは宇多田ヒカルの楽曲だろう。「桜流し」もほとんど『Q』を観ずに書き上げたそうだが、その死生観や刹那的な描写は恐ろしいほどに作品とリンクしている。

庵野監督は足を失った父親と「欠けている幼少期」を送っていたそうだが、宇多田ヒカルの母親も精神の病を長年患い、やはり「欠けている幼少期」を送っている。

宇多田ヒカルは年齢的にもエヴァ直撃世代だが、それ以上に生い立ちからしてシンパシーを感じる部分があったのは想像に難くない。

また、庵野監督が壊れた時期、宇多田ヒカルも母親の自殺を経験した。シン・エヴァに至るまで、庵野監督と宇多田ヒカルが体験した死生観にまつわる痛みと再生は、近しいものがあったのではないだろうか。

そして宇多田ヒカルは二度の離婚を経て、シングルマザーとして「One Last Kiss」を制作。自身とシンジやアスカを重ねたであろう日々は終わり、奇しくもミサトと近しい境遇になったことも奇妙な一致と感じる。

「忘れられない人」は、ゲンドウにとってのユイかもしれないし、ミサトにとっての加持かもしれない。「One Last Kiss」の短い歌詞に、どれだけのエヴァの物語がリフレインするだろう。

ゲンドウの「たった一人、君に会いたい」という思いに重ねて「beautifulworld」と「One Last Kiss」を聴くと、エヴァのなかにある「万人に受け入れられるラブストーリー」が見えてくる。

ぶっ飛ばしたいクソ野郎であるはずのゲンドウに共感してしまうのは、宇多田ヒカルのおかげだ。

エヴァは幸福な異物に出会うまでの物語だった

シンジがネルフ跡地で「なんでみんなこんなに優しいんだ」と慟哭したのは、Qを制作したあとに壊れた庵野監督そのもののように映った。

シンジが立ち直るときに傍にいたのは、アスカやレイ、トウジ、ケンスケとった昔からずっと周りにいた人たちだった。

エヴァを作れなくなった庵野監督と、ファンやスタッフの存在。「答えが出るまで待つ=エヴァを作るまで待つ」の暗喩になっていると思えた。

実際、それは嬉しい以上に恐ろしい話でもある。自分がもうできないと感じていることを「いつまでも待つよ」と言われたら、「放っておいてよ!」とガチ切れしたくなる気持ちもわかる。

こうした「昔から支えてくれたもの」を踏まえてもなお、本当のグッドエンディングにたどり着くにはマリという異物(他者)が必要だった。その点で、個人的には「マリ=安野モヨコ」は肯定的に受け取れる。

ただ、ファンのすべてが庵野監督のように幸福な異物と出会えたとは限らない。エヴァの本質的な孤独に魅せられていた人々にとって、シン・エヴァはバッドエンドだろう。「胸のでかい、いい女」が近くにいれば、そりゃ救われるわ、と。

赤い海辺で究極的に救われることはなかった惣流・アスカ・ラングレーのように、シン・エヴァは旧劇に囚われたままのファンを救う内容ではなかったと思う。

もう少し深く惣流・アスカ・ラングレーについて考えると、その解釈はシン・エヴァを経て大きく変わったのではないだろうか。

TVシリーズでは外界から来た「他者」のように見えたアスカだが、シン・エヴァでは綾波レイと同じ「〇〇シリーズ」と判明した。

旧劇ではシンジとアスカは同格であり他人だったからこそ、二人はサードインパクトで閉じられた世界に残ったのだと思っていた。けれど、アスカも仕組まれた存在であり、究極的に他者ではなかった。シンジは他者への恐怖からアスカの首を絞めたのではなく、自己否定によって首を絞めた……?

その点でやはり、エヴァのパイロットでありながらチルドレンではない、異物のマリこそがシンジを救い出してくれる「他者」だった。

あの浜辺で、シンジとアスカがともに歩き出すエンディングを観たかったとも思うけれど、庵野監督からすればその結末は貞本エヴァで既出ということになるだろう。観客が知っている結末をシン・エヴァで再び描くのは、納得できないはずだ。

最後に

これ以上は何も望まない。終わらせてくれてありがとう。

自分もクリエイター職の端くれとして、創作物を終わらせることがどれだけ大変かは理解している。サードインパクトのように、街の色すら塗り替えてしまうような作品の幕を引く……想像すらしたくない重圧だ。エヴァを作り終わらせた偉業は、宮崎駿や富野由悠季らと肩を並べるのに十分な功績だと思う。

きっともう自分が生きているあいだに『エヴァンゲリオン』のような作品にはお目にかかれないだろう。監督の心象風景に踊らされ飲み込まれ、偏屈で鬱屈した人間の拠り所になるような作品には、きっともう会えない。

ただ、『プロフェッショナル』のなかでは「僕のエヴァはこれで終わり」という、含みのある言い方があった。

もともとTV版と並走していた貞本エヴァがパラレルになってるくらいだし、最近でも山下いくとの『エヴァンゲリオンANIMA』の例がある。鶴巻監督あたりがマリを主人公にした空白の14年間を作ってもおかしくないのかなと思う。

エヴァがガンダムやゴジラのように作り手を変えて延々と続く作品となっても、さもありなん。

『エヴァ対ゴジラ』はガチ。『エヴァ ep.2022』は蛇足だったわ。などと死ぬまで言い続けたい。

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