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ぼくたちの「色」はどこに向かうのか~captureoneの新機能から考えたこと~

capture oneという、編集ソフトがあります。

最近、X上でこのcapture oneの新機能が話題になりました。

その新機能とは、「マッチルック」といい、
編集したい写真に、元となる写真を読み込ませることで、元となる写真の色味に、ワンタッチで合わせることができる、という機能です。


この機能の話題を見て、ぼくはこんなことを思い出しました。

20年前とかそこらへん、ぼくたちは電話番号と住所を100件覚えることができていたわけです。

しかも特殊能力とかじゃなく、まあまあある程度の人たちが、100件の暗記をできていた。

しかし、徐々に小型で容量の大きな記憶媒体がでてきたことで、

その「記憶」を機械にアウトソーシングしたわけですね。
写真でも言葉でも、音楽でも、記憶できていたものを、小さな箱に詰め込むようになった。


そうすると、自分の電話番号ですら記憶が難しい人もでてくるようになってきた。

たぶん、capture oneの新機能も、これを皮切りに、
「色への感覚」をアウトソーシングしていくきっかけになるのではないかなあ・・・。と思ってしまったわけです。

つまり、100件の記憶力がなくなってしまったように、
色への感覚やこだわりなどをなくしてしまう未来もあるのではないか、ということ。


ややこしいな、と思うのは、
色々な身体の機能をアウトソーシングすることが、資本主義の合理性にはあっているかもしれない、ということかなあ、と。

つまり、
色への感覚がアウトソーシングされることで、一部の職人的な感覚が民主化されて、誰でも使えるようになることで、より経済的に発展するかもしれない。

その中で、資本主義の合理性の中で、淘汰されるものもでてくるでしょう。

いまも、LUT売れねえ、というつぶやきがX上でも多くなってきている。

ただ、心配するのは、その売れる売れない以上に、
身体機能を手放す可能性があることなのではないかなあ、と思うわけです。

範囲の狭い資本主義で悩む目の前で、もしかすると大きな何かが消えていくかもしれない感覚。

もちろんアウトソーシングで民主化された身体機能によって、恩恵を受ける人々もいると思います。

なので、批判も迎合もあると思いますが、軽々に判断しすぎないほうがいいのだろう、と。

これをきっかけに自分の感覚を見つめなおしていくのがいいかもしれない。


そんなことを考えながら、
写真を編集したり、
美術館に行ったり、
街や自然を見たいな
、と思ったのでした。


自分に出来ることは、自然や誰かの成果物、テクノロジーで溢れる世界をインプットして、混ぜて、悩んで、組み合わせて、写真でも服でも絵でも言葉でもいいから、アウトプットする。

変化する時代で自分らしさを保つには、それを繰り返すしかないんだろうなあ。

※写真は、区切りの変わりなので、意味はありません

※この話は、Xで少しみなさんに見てもらえたツリーをもとに編集しなおしたものです。


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