ネットという世界
仕事終わりの電車の中。
退屈な時間を埋めたくて何気なくスマホの画面に指を走らせていると、「あなたのコメントに返信がされました」との通知がやってきた。
発信元はYouTubeで、「あれわたしYouTubeにコメントなんかしたっけな」と思いながらもとりあえずタップしてみると、10時間勤務の後の疲労でぼうっとした脳が一気に起き上がる感じ、心臓がキュッと小さくなって全身に力が入る感じがした。
「こういうポエムみたいなコメント恥ずかしくて見てられない」
数年前、私が大学生だった頃に書いたYouTubeのコメントに上記のようなコメントが突然返信されていたのだった。
とある再生回数が何億も回っている映像作品について
「爆発力があるのは〇〇の作品だけど、こっちの作品もしっかりいいよね。夜中の雨みたいにだんだん良さが染みていく感じ」
と書いた私のコメントは、この時まで本当に気づきもしなかったのだがなぜかコメント欄の1番上に配置されていて、5年時を経ていいねが1.2万くらいついていた。加えて5,6件同調するようなコメントや、私の文章を褒めてくれていたコメントがついていた。どれも日付が古く、ここ3年は私の書いたコメントに返信した人はおらず、ひっそりとただそこにあったようだったのに突然、私のコメントへ久しぶりに更新がかかった。という状態なようだ。
もうすっかりそんなコメントしたことも忘れていたタイミングで、想像してもなかった方向から悪意のある石を投げられて、ヒビが入ったみたいに心が「チクっ」とした。
傷つくまではいかなくても、驚いた、というよりはやはりちょっとダメージを負ったような感覚。困惑。動揺。とにかくいい気持ちはしなかった。
それでも数秒後には、まあそんな人もいるだろうと思ったし、私の5年前のコメントに対して知らない誰かがどう思うかは自由だし、と、その通知を消すだけを行い、スマホを閉じた。そのままスクリーンをいじる気にはなれなかった。寝てるふりをして目を閉じて、それから最寄駅につくまで、そのコメントについて考えていたような気がする。
翌日、もうすっかり一連の出来事について忘れていた私は、朝会社についてスマホを開くとまた小さく息を飲む。
YouTubeから再び「あなたのコメントに返信が来ました」の通知があったのだ。しかも2件。
たったこれだけのことで心臓がドクドクとなり始めて、指先が本当に小さくだけど震えていた。そのまま通知をタップすると、案の定、昨日見ていたコメント欄へ否応なしに飛ばされる。
「わかる。酔いすぎ」
「イタタタタタタ………」
との2件のコメントが追加されていた。
そして今回でわたしはハッキリと、自分の「怒り」の感情を感じ取った。
自分と考えが違う、自分の好みではない人が世界にいるなんて当たり前の条理なのに、わざわざそれを伝えてくる人って自分のことどれだけ過信してるんだろう?と思う。
正直、見てられない。といわれても、知らねえよ。でしかない。もしお前のコメント、嫌いな人もいるからなといわれているのであれば、そんなん知ってるよ。でしかない。こちらからしたらてかまず、お前誰だよ。
そして、次に驚いたのは負の感情の拡がる早さ。
だって、私のコメントはここ3年は更新されず、静かにあったはずなのだ。それなのに昨日、初めて1件の批判よりコメントがついたタイミングで立て続けに2件追加で書き込まれた。この時間軸がとても興味深かった。
私のコメントをみて、なんだこのコメント。けっ。と思ってた人達は、これまでもいたんだろうけど、わざわざ言ってこなかったんだと思う。
そりゃそうだ。
自分の好みじゃないからと言って、同じ感性のもの同士がひっそりと良さを共有している場に土足で上がり込んで、わたしらすきじゃないから!!と宣言することは、とても傲慢で浅はかで視野の狭い行為だから。それは社会という色とりどりの人が生きている世界で当たり前の倫理観だと思っていたのだけれど、それを破ったものが現れた時、「自分だけではないんだ」という安堵が勇気や自己肯定になったのか、そして正義だと確信したのであろうか、追随して批判コメントをする人が増えるんだな、と思った。
YouTubeに映像を載せる、ということは、自分の作品を人に見てもらうために実施していることだ。だから、そこに賛否つくのは避けて通れないものだとは理解している。けれどそれだけではなくて、その作品に対して想いを記したコメントも同様に、世間からの評価対象になるのかと思うと、改めてSNSはとても忙しなくて、人と人との距離が近すぎるツールなのだと気付かれた。
そして思う。最近のSNS、ユーザーの心殺しにかかってきていないか?と。
(書き途中)