あれから一年……。

去年の今日、11時50分に娘は亡くなりました。
去年の今頃、私の頭の中は進んでいない仕事と、翌日のデッサン教室の事が大半を占めていました。
娘の事は「この忙しいときに帰ってきてなんかぐずぐず言っているめんどくさい奴」でした。
娘も、そんな私のピリついた空気を感じてか、姑の部屋に入りびたりで、正直それも私にとっては面白くなく。
そんなこともあって、娘への私の態度はけしてあたたかいものではありませんでした。

先日、娘がお世話になっていたグループホームの施設長さんがお参りに来てくださって「Mちゃんはいつもおばあさんの事をお話していました」と語るのを聞いて、内心、酷く姑に嫉妬しました。
おばあちゃんは買い物とか旅行とか美味しいところだけつまんでいたのに……。あの子が「死にたい」としきりにこぼしていたのに何もできなかったのに……。

でもまあ……仕方ないのかなと。
誰だって、厳しい人より優しい人がいいですもんね。
心が弱っていたら特に。

私自身、未だに母方の祖母の事では泣けますが、最後まで噛み合わなかった実母には涙も出ませんし。
実母が私について色々してくれたことは理解しているんですけれど。
結局、人はどれだけ自分を支えてくれたかよりも、自分にとって気持ちいい人しか好きじゃないんですよ。
その拳に愛がこもっていようといなかろうと殴る人は好かれないんですよ………。拳ってのは比喩です、念のため。

作り話をなりわいとして、色んな体験を想像してはお話を作っている者として「経験してない奴にはわかんないよ」って言葉、ホントは好きじゃないんですけれども。
でも、世の中にはほんとうにそういうことはあって。
身近な人が自死してしまうっていうのも、まさにその一つだなぁと痛感します。

例外はあるとは思いますが、自分の見てきた自死遺族の人は、けして他の自死遺族に「あの人もあの世では苦しみから解き放たれて幸せに過ごしているよ」「あの人もあなたのことは許しているよ」みたいな無責任な言葉はかけません。
ご本人自身はそう信じて、亡くなった人への思いをつづることはあっても、他人にそれを押し付けてこない。
それだけ、それぞれの痛みの深さを知っているからだろうなと思いました。

じゃがいもとか、さつまいもで、一部はぐずぐずに腐っているのに、他は元気に芽を出しているのってあるじゃないですか。
今の自分、まさにそんな感じで。
娘を亡くしてしまった(自分が最後の背中を押すようなことを言ってしまった)千切れるような後悔と自責の念に、ちょくちょく寝室のぶらさがり健康器で首吊ってしまおうかという気持ちになる反面、好調な仕事にやりがいめいたものを感じてスキルアップの勉強に励んでみたり。
なんかやってることがバラバラで、滑稽です。

初盆の準備に、灯篭やらお供えやら精霊馬やら準備してもなんか「おかあさんはお金でなんとかしようとするよね」と言われている気がしてしんどいです。
反面、ひどく遠慮がちで気を使うタイプだった娘は「そんなことないよぅ……」と、困った顔で目を伏せる気もします。

ああ、生きていたとしても本当にわかりあえることはなかったかもしれないけれど。
それでも、もっと話をしたかった。

一年が経ちましたが、まだまだ傷は厚い瘡蓋の下でうずいています。

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