映画『ルックバック』について
『ルックバック』
この話は徹頭徹尾、藤野と京本の2人の話であった。
藤野が京本の作品と出会ったところから始まり、2人で終わる。
何故2人で終われるのか、についてここから書いていく。
並行世界。
これは、原作者の別作品『さよなら絵梨』で言うところの「ファンタジーをひとつまみ」である。
藤野の後悔の念が時空を歪ませ、2人の出会いの(そして藤野視点では悲劇の)契機となった4コマの破片を転移させて世界を分岐させる。京本が部屋から出ず、2人が出会わなかった世界は、一見同じ結果に収束していったように見える。京本は美大に進学するし、藤野も再び絵を描き始めた。電話番号を知り、命の恩人であることから、アシスタントではなくとも2人の継続的な交流があの後生まれたかもしれない。
しかし、リーディング・シュタイナー(※Steins;Gate)を持たない藤野は京本が自分に助けられて生存している世界を認識することはできない。
ではあれには何の意味があったのかと言えば、京本から送られた4コマだ。
藤野があの4コマについて何を考えたのだろうか。
どこから来たのかや内容についての考察、そんなことは何も考えなかったと私は思う。「もしかして並行世界で自分が助けた?」などという発想なんてあろうはずもない。
内容自体には意味がない。
重要なのはタイトル、
『背中を見て 京本』
これだけだ。
これこそが重要なのだ。
この言葉に、藤野はそれまでついに開けられなかったドアを、自分が開かせたが故に京本が死ぬ原因となったドアを、開ける。
そこで目にしたのは、自分の作品を読み応援していてくれたことがありありと分かる京本の部屋。
そして発見した、自分が背中にサインした半纏。
京本が、自分の背中を見続けて創作活動をしていたことに気が付くのだ。
そして紡がれる、2人の初めての合作の回想。
ここで、藤野が読んでいたのがシャークキックの最新刊だったことに、初めはひっかかった。短編集で、メタルパレードでいいじゃないか、折角2人での創作シーンを回想したんだからと。
しかし鑑賞を重ねて真実に気づき、自身のその読みの浅さに恥じ入った。
藤野は、京本と描いていない自身の作品の中にこそ、京本を見つけていたのだ。
京本が自分の背中を見ていたように、自分もまた京本の背中を見ていたことを、悟る。
本気で絵を描くことになった原初の炎は、自分の中で燃えていたのだと。
自分が描き続ける限り、その作品には京本が生き続けるという真理に至ったからこそ、藤野は再び歩き出し、筆を手にすることができたのだ。
最後の、仕事場の窓に張られた4コマ用紙、あれは並行世界から届けられたものではない。あの4コマはきっかけに過ぎず、京本の背中は常に藤野の目の前にある。
それでも、ある種の象徴として、目指すべき理想として、自分達の原点として、何も書かれていない4コマ用紙という背中を、見続けられる場所に掲げたのだ。
ここでふと考えた。
「出てこないで!!」の破片を並行世界に送ったのが藤野の想いだとすれば、『背中を見て』の4コマを送り返したのは誰の想いなのだろうかと。
並行世界の京本には、世界を超越する程の藤野への想いはない。
藤野がこのまま折れ、描けなくなって欲しくないと想う誰か。
答えは、並行世界の京本が言っていたよ。
藤野の見る背中は、遠い。
理想となった目標には、決して届くことはない。
だからこそ、いつまでもどこまでも歩いていくことができる。
見つめて歩いて歩いて歩き続けたその果てでついに背中は見えなくなり。
気付けば隣ではにかんでいる。
そんな最期を迎えることを、私は強く信じている。
以下、2週間ほどこねくり回してボツにした書き散らしを供養として晒す。下書きとして機能した部分もあれば、思わず赤面する殴り書きもある。合掌。
ルックバックについて
その気色窅然として、美人の顔を粧ふ。ちはや振神のむかし、大山づみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。(『奥の細道』松尾芭蕉)
文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣こころばえ。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。(『如是我聞』太宰治)
ルックバックについての感想をどうにか言葉でまとめようと思い立ち、しかしながらこれは大変な事になるなと戦きつつ思い出したのが上記の引用である。
とにかく、大きなもの、大切なものというのは言葉にまとめるのが難しい。
芭蕉の方はあまりの美しさに句を詠むのを断念した。(正確には、詠んだが不満だったので本文に採用しなかったとのこと。有名な「松島や~」は別人による作)
太宰の方は言い淀みながらどうにか形にしようと苦心している。
自分も、津軽衆として、もがきながらどうにか文章化してみようと思う。
泣いた場面とその考察
初回鑑賞で泣いたところとそのポイントを順に書いていく。
まずは藤野が、京本の絵を初めて見た後の下校シーン。
京本の絵に衝撃を受け、「自分より絵が上手いやつがいるなんて許せない」と悔しがった藤野の行動が、絵の上達方法を調べ・身銭を切って本や画材を買い・自分を高める、というきわめて正攻法だった所で私は泣いた。
自分が学校に行っている間に練習をしている、というのは藤野の主観的には「ずるをしている」わけで、それに対して自分も同じく学校を休むとか、時間的に不利だからしょうがないと判定を甘くするだとかではなく、あくまでも真向から(授業中に内職している点はまあご愛嬌とする)勝負しにいく姿勢の清々しさに心を打たれたのだ。
続いて、京本と出会った後の雨の帰り道。
ここは藤野の極めて複雑な心のうちが丁寧に描かれている。
好敵手と認定し、届かないと諦めた相手から尊敬されていたという事実。これはきっと素直には喜べない、反発や怒りもあっただろう。しかし、何よりも嬉しく感じたであろうことが極めて躍動的に描かれていた。そこに、更なる複雑化を呼び込む自らが勢いで拡げた大風呂敷。流れで思わず見栄を張ってしまったがどうするんだという苦悩が前述の感情と入り交じり、あの味わい深い表情と動きを生み出した。
故郷で見たことのある、田んぼの中のがたがた道を、今にも感情を爆発させそうな瑞々しい感性が飛び跳ねる姿に泣いた。
続けて、これも自分にも覚えのある猛吹雪の中、地方テイストあふれるコンビニ(原作だとセブンだが、この改変は個人的にとても好ましい)に2人で行き、受賞を確認するシーンはもう良かったなぁと泣くのだが、一番泣いたのはその次だ。
2人が街に出て遊びに行った所から始まる、手を繋いだ場面を象徴とした2人での歩みの連続の場面。好い。凄く好い。
ここは少しメタなのだが、
「物語の構成的に絶対この後何か悲劇的な事が起きるだろ! 起承転結とかどうでもいいからこのまま終わってくれ! 2人にしておいて! 時間よ止まれ!」
とファウストみたいな事を思いながらぼろぼろ泣いていた。
なお、初回鑑賞時は読み切り時代の連続場面の最後で2人の手が離れそうになっているという描写には気づいていなかったのだが、自分の無意識はそれも読み取ってこの後に訪れる悲劇を想定し涙を滂沱させたのかもしれない。
ここも大きい、京本の死を自分のせいだと責める場面。
「京本、部屋から出さなきゃ」のところで、それは違う! あの2人で作品を作って遊んだ時間は京本にとってもかけがえのないものだった!ともうすげえ泣いた。
そして最後、京本の部屋で自分のサインを入れた半纏を見てからの流れ。
ここは初回鑑賞時は何故自分が泣いているのか分からなかったが泣いた。ここはその後、3回鑑賞して気づいたので後述する。(※後述しようと思った内容が本体になった)
原作と映画
原作ありきなのは当然なのだが、正直映画が良すぎた。
音楽の効果の大きさをまざまざと見せつけられた気がする。
サントラも買ったのだが、聞くたびに思い出して泣ける。
声もいい。
京本の東北訛りが、青森出身の自分としてはかなり刺さった。
2人が初めて会った場面で京本が「マイスウ」と言っていたところ、「枚数」と思う人いるだろうなー、「毎週」なんだよなー、東北だと「ス」と「シ」が曖昧になる単語があるんだよなーと無駄に東北マウントをとって観ていた。
声がつくことで、2人がより鮮明に、解像度が高くなって現れたように感じる。
追加シーンが良い。
原作に無いシーンを追加するのは良し悪しがあるのだが、これは完全に良い。
原作の場面と場面の間を「きっとこういう出来事があったんだろうな」と思わせる見事な繋ぎで埋めてくれていた。
並行世界
並行世界は、最近流行の転生モノへのアンチテーゼ的なものなのかと思う。
過度にコミカルにされた演出(蹴りのシーン)から分かるように、あからさまな作り物感を意図的に出している。
あの世界がどうなっても、元の世界の藤野には関係がないのだ。
いや、いつもは好きなんだけどね、IFもの。
でもここでは、2人の出会いがなくなっても同じところに向かうとか認められん。
ペンネーム
コンビではなくなったのに、連載後のペンネームも「藤野キョウ」のままである。
ここに2人の絆が込められている。
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