お気に入りのビスケット
昨年の夏に祖母が亡くなった。膵臓癌だった。祖父は、祖母とずっと暮らしてきた部屋に一人になった。夜眠る時、遺灰を傍らにおいて一緒に眠るのだと、家を訪ねた際に教えてくれた。祖父が寝室として使う和室の一角には、祖母の遺影と遺骨が枕のそばにくる位置に置かれていた。
その後、祖父がおよそ10年以上前から認知症を患っていたことが分かった。最近になって症状が顕著になり、僕の父が病院に連れて行ったところ判明したのだという。父曰く、祖母が病院で癌の診断を受けた際、祖父も同席して病状の説明を頷きながら聞いていたそうだが、後から確認すると、会話の内容をほとんど覚えていなかったらしい。この前は、かかりつけの病院での検診に向かう際、いつも使っていたバス停の場所が分からなくなってしまったという。結局、タクシーを拾うことで病院に着くことはできたそうだが、祖父はケータイを持っていない(数年前は所有していたが、どうしても使えなかった)ので、検診のために先に病院に着いていた父は肝を冷やしたと言った。そう話す父は苛立ちを隠さなかった。僕の父は子どもの頃、祖父から虐待と看做せるようなひどい扱いを受けていたらしい。そう母から聞いたのはごく最近のことだった。それまで、どうして父が祖父及び祖母に対して、子どもの目にも明らかなほど距離を取った関わり方をするのか、僕にはわからなかった。何せ、祖父と会えばそれなりに普通の会話はできたのだ。多少の癖や説教がましさはあれど、それだけで嫌うほどではなかった。去る7月、両親の家の近くに祖母の納骨をした際、祖父もお墓の様子を見にやってきた。祖父は、僕の最近の仕事の様子を聞いてくれた。「慣れたか」と尋ねられ、仕組みが整っていないからまだちょっと大変、と言うと、祖父は「そうか、それは大変だなあ」と頷いた。僕は会話できたことが嬉しかった。ただそれと同時に、いつか父に暴力を振るった身体が、当時よりもずっと痩せた状態で目の前にぽつんと座っている様子を、自分としても奇妙なくらい冷めた目で俯瞰してもいた。
その祖父が、介護老人福祉施設に入ることになった。両親が空室のある施設を日夜一生懸命に探した結果、運よく見つかったのだという。両親はここ数週間、祖父が入所先で使う椅子やその他の家具を買い揃えながら、祖父の家にも赴き荷物の整理をしていた。そんな折、僕は仕事でうまくいかなくなった。そして休職した。ベッドの上に寝転がったままカーテンも開けられず、頭痛に苛まれて終わる日もあった。二週間ほどである程度まで回復し、外に出られるようになった。両親から、いつ実家に帰ってきてもいいと言ってもらったことがずっと頭の片隅にあったので、一旦顔を見せた方が良いかと思い連絡した。泊まる予定はすぐに決まった。
一日だけ泊まる予定のところを一日延ばし、三日目の昼過ぎに帰ることにした。両親は、彼らが使わなくなった枕や、以前僕が好きだと言ったふりかけなど、いろいろお土産を持たせてくれた。その中に、両親が祖父の家から持ってきたものがあった。越後製菓のレンチンできる白ごはんと、『はつゆきさんちのたまごパン』というビスケットだった。聞けば、祖父の家で荷物の整理をしていた際たくさん出てきたのだという。残りがあっても買っちゃうんだよ、と父は呆れたような、苛立っているような調子で言った。そっか、と手に持ったビスケットの袋を見下ろしながら小さく頷くと、「おじいちゃん、きっとこれが好きだったんでしょ」と母が言った。
一人暮らしの家に戻り、荷物を片付けてから、『はつゆきさんちのたまごパン』を片手に腰を下ろした。子どもの頃から数えれば、祖父の家を訪ねたことは何度もあったが、一度もそのお菓子を見たことはなかった。だから、おそらくは祖母がいなくなってから見つけたものなのだろうと思った。曇り空の明かりが入る窓辺でパッケージを開け、たまごを半分に割った形のビスケットを取り出した。食べてみるとかなり硬く、祖父はこれを食べられたんだな、とぼんやり思った。一つひとつと食べているうち、胸がぎゅっと詰まるような感じがしてきた。祖父が一人でこれをたくさん買い溜めたことを思った。認知症になり、分かっていたことがにわかに分からなくなっていく過程で、お気に入りのビスケットを買うこと、そしてそれを食べることは、祖父にとってどういう意味があったんだろう。食べるほどに胃は重くなったが、胸の奥の、何かが欠けたまま放置されているような、湿った穴のような感覚は変わらなかった。
数日後、中身のなくなったビスケットのパッケージを洗った。祖父は、世界の袂をどうにか掴んで離すまいとしたのではないか、と思うと、捨てられなかった。呆れたような調子で祖父のことを話す父を思い出す。祖父と話をしたときの、柔らかな目元を思い出す。祖父が父と祖母を黙らせ、傷つけてきたのであろう歴史には、どれだけ考えてみても届かなかった。僕は、乾いたビスケットのパッケージを書類の入っている入れ物に滑り込ませた。
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